銀のスプーン
馴染みの婦人はそう言って笑い、持っていたバッグから医療器具を取り出して老人に手渡した。今年の風邪はしつこいからね、と老人は言い、デジタル表示の体温計をまるで子供にするようにフラガの脇に挟む。自分で動くのが億劫で、諦めたようにされるがままに診察は進んで行く。事実ここまで来られてしまったら諦めるしかないのだが。
「ふむふむ、これからまた熱が上がるな。少し腹に物を入れて、充分水分を取るように。」
若いんだからすぐに良くなる、と老人は笑った。出した物をしまっていた婦人が変わりに出したのは幾つかの飲み薬。その中に、見慣れない瓶がある。濃い、と言うよりも黒に近い焦げ茶色の液体が入ったそれを指してなんですかと訊ねると、風邪シロップですと言うこれまた懐かしい響きが返って来た。
「大人用のね。」
最近は薬が飲めないなんて言う子供みたいなこと言う人が増えてねぇ、と言う婦人は、自分が粉薬が苦手だと言うことを見抜いているらしかった。粉に限らず、薬なんて縁遠い物ははっきり言って嫌いだ。
食後と就寝前に、と説明されたそれらを受け取って、なぜかすいません、と呟いていた。
多分凄く嫌なんだろうなあ、とまさに他人事だから気楽に小さく笑いながらキッチンに戻り、中断してしまった夕食の仕度の続きに取り掛かった。
厚手の煮込み鍋にオリーブオイルをひいて熱し、荒く刻んだにんにくと輪切りの鷹の爪を炒める。きつね色になったらみじん切りよりは少し大きなタマネギとベーコンを加え、サイコロ状に切った人参、じゃがいも、セロリを足してざっと炒めて、野菜が被るくらいの水を足す。中火にして暫く煮込んでいる間に隣りで小ぶりの鍋に固形のコンソメを溶かして火に掛け、冷凍庫から出したご飯を解凍する。沸騰したら牛乳とチェダーチーズ、ゴーダチーズを細かく刻んで溶かし、生クリームと塩、ホワイトペッパーに水で解いた少量の小麦粉を加えてとろみをつけ、解凍したご飯を入れて軽く掻き混ぜると、焦げないように弱火で煮込む。遠い記憶を掘り起こしながらミルクのリゾットをほぼ完成させると、煮込んでいた大きな鍋の蓋を開けて灰汁を掬い、コンソメと白インゲン、ひよこ豆とレッドキドニーを加える。空き缶が邪魔だったから流しに移してボウルにトマトの缶詰を開けてフォークで潰し、煮立った鍋に追加する。塩胡椒と乾燥バジル、オレガノと赤ワインを少しを加えて豆が崩れないように火を弱めてから隣りのリゾットをひと混ぜする。混ぜすぎると粘り気が出て崩れてしまうので、注意して。
「…あ、と…ケチャップどこだっけ?」
空の野菜袋を燃えないごみに放り込み、埋まっていたケチャップを掘り起こすとトマトスープに大さじ一程度加えて味をみる。納得の行く味だったので軽く頷き、最後に剥いたレンズ豆を加えて火を止めた。
食事の仕度を終えると、隣室の婦人と医師がフラガの部屋から出て来た。
「有り難うございました。」
そう言って頭を下げると、老医師は笑みを浮かべて若いもんは良いなあ、と呟く。
「なに、すぐ良くなる。薬は必ず食事のあとに。胃薬も処方してあるからなるべく食べさせて…まあ心配いらんかね。」
キッチンに並んだ鍋を見ながらそう続けて老人はゆっくりと歩いて行く。隣室の婦人はあの人、薬苦手でしょうと可笑しそうに小さく言った。
「…やっぱり、そう思います?」
聞いた訳じゃないですけどと言うと婦人は多いのよねぇ、と言って笑った。
「薬飲めないって言う人。がんばってね。」
軽くキラの肩を叩いた婦人に苦笑を返し、時間外にわざわざ来て貰ったお礼を兼ねて昼間買って来た焼き菓子を手渡した。
「明日、きちんと病院に伺いますから。」
玄関先でそう告げて老人と婦人を見送ってリビングに戻ると、とても不機嫌そうな顔をしたフラガがソファに座っていた。明かりの下でも少し顔色が悪い。戦争をしていた頃の、とても疲れていた時と同じ顔だ。なんとなく思い当って苦笑を浮かべた。
「…ご飯、食べて下さいね。」
大丈夫じゃないから病人なのだ。大丈夫か、なんて聞くのは奇妙だと常々思っているから口にはしない。
「……今日、なんだ?」
この状態がほとんど通常になっている所為か、だるそうな声でそれだけ口にする。
「ミルクのリゾットと、ミネストローネです。」
今用意しますから、と続けてキラは食器棚から深皿とスープカップを出した。給湯器からお湯を張って食器を暖めている間に、もう一枚なんか着て下さいと言うとフラガはもう動く気しねぇよ、と返した。そのわりにソファからダイニングテーブルに移って暢気にテレビのスイッチを入れたりしている。その様子に軽く溜息を吐いて寝室に上着を取りに行き、ついでに置きっぱなしだった飲み薬を抱えて戻ると、フラガの眉間に寄った皺がまた深くなった。
「ほんっと、子供みたいですよ少佐。」
面白い、と言って笑うとフラガは諦めたような溜息で返事をした。
思った通り、あまり食べられない。元々食欲自体ほとんどなかった所為もあるし、固形物より水分が欲しいと身体が思っている、らしい。
それをしっかり計算して用意したのか、目の前の食器は綺麗に空になっていた。一緒に用意した筈の新しいミネラルウォーターのボトルは半分以下になっていて、多分足りない。
「はいこれ。ちゃんと飲んで下さいね。」
足りない、と思っていたボトルの中身をグラスに開けて、下げた食器の変わりに目の前に出て来たのは白い錠剤と小さな容器に入った焦げ茶色の液体。その隣りに、新しいミネラルウォーターのボトル。
「ほんと…しっかりしてると言うか、お母さんみたい?」
苦笑混じりに零した感想は、小さくともキラの耳にしっかりと届いたらしい。もの凄く嫌そうな顔をして振り返って、丁度良いんじゃないですかねえ、とだけ唸るように呟いた。不本意だけれど、確かにその通りだ。堪える努力を放棄して笑い転げて、ウィルスに攻撃された喉はそれに堪え切れずに咳き込んだ。
片付けを食器洗い機に任せて戻って来たキラが無理するからですよ、と呆れたように零す。グラスの水を飲んでそれをやり過ごすと、テーブルの隅に載った小さな包みが不意に視界に入った。
「…なんだそれ。」
指差しつつ訊ねると、キラは思い出したようにああこれ、と言ってそれを引き寄せた。
「今日貰ったんですよ、ケーキ屋さんで。」
そう言いながら包みを解くキラは、何処か嬉しそうだ。ケーキ屋ということは、いつもの店に今日も寄って来たのだろう。キッチンカウンターには見慣れた店名が印刷された紙袋が乗っている。視線をキラの手許に戻すと、包みから出て来たのは小さな銀色のスプーンが二本。
可愛い、と言うのが一番近いそれはデザート用のサイズで、優雅に弧を描く柄の先には透かした唐草模様と小さな赤い石がついている。スプーンの内側には店の名前が刻印されていた。
「…ノベルティにしては随分奮発しましたね…」
まじまじとそれを眺めていたキラが少し間を置いて述べた感想に、またしても笑い転げた。あまりにも現実的過ぎる。
「お前さん…もっと他に言う事ないのかよ?」
ひとしきり咳き込んでからそう言うと、キラはきょとんとしてそうですか、と返す。
「だって事実ですよ。」