フラキラ ほか01
震える声でそれだけ言って目を伏せて、毛布を掴む指先が白くなるほど握り締めて。
大切なものなのだろうということは分かる。微かに触れた指先から、その表面に刻まれた文字を読み取る事は簡単だったから。キラの中でこれに関してどういう変化があったのかは分からないけれど、少なくとも他人が触れる事になにも感じないと言う訳ではないようだった。
「…あの人の…か…」
たったひとり、キラの今の世界を変える事の出来るその人は、もう二度と会う事はない。
ずっと前に、とキラは呟く。
「…貰った…けど、どうしようもなくて…それ見ると…多分、怖くて…」
泣きそうな顔をしている癖に、途切れがちに紡がれた言葉ははっきりとアスランに向けられていて、不思議な気分になった。ここにいるのが自分ではなくカガリだったら、間違いなく代わりに泣く所だ。
「なんで怖いと思うんだ?」
それなら捨ててしまえばいい、とアスランは告げる。
突き離すような口調に少し驚いたのか、キラは顔を上げた。
「これがある所為でキラがいつまでもここに縛り付けられているなら、ない方がいいだろう?」
仕方ないな、と言ってアスランはキラの制止を振り切るようにそれを手に取ると、自分の上着のポケットに落とし込む。
「…やめて…返して…!」
珍しく声を荒げたキラはベッドから身体を浮かせて手を伸ばすけれど、半年間動かさなかった身体が言う事を聞くはずがなく。傾いた軽い身体を受けとめると、キラは返してと繰り返しうわごとのように呟くばかりで、無理に動かした身体が耐えられずに喉の奥から聞こえる呼吸が次第に荒くなっていく。
「…キラ、落ち着け。ほら、急に動けるはずないだろう…お前、どのくらいここにいるのか分かってないんだろ。」
その言葉に、キラは動きを止める。
「…どうして…?」
そう言ったキラは、明らかにこれまで半年間見ていた彼とは違った。呆然と見開かれた瞳は、確かに驚いてはいたけれど、先ほどまでの虚ろなものではなく、きちんと驚いたと言う感情が見られた。
「…キラ…ッ」
細い肩を掴んだまま、アスランの方が驚いてキラを見据える。
「お前、今、思い出したのか?なんでここにいるのか分かるか?これが、誰のものか分かるのか?!」
半年間、機械のようにしか反応を返さなかったキラが、呆然としたまま呟く言葉に聞き返す。
「…どうして?…どうして…だろう、アスラン、もう終ったんでしょう?…終った?何が?どうして…?」
掴んだ肩が震えていた。意味の分からない自問自答を繰り返すキラは次第に言葉すら正確に紡げなくなっていき、ただ細い両手で自分の頭を抱えていて。不意にそれが途切れたかと思うと、キラの身体から力が抜けて両手にかかる重みが増す。思考の限界を超えてしまったのか、キラは意識を手放していた。
「…もしかして、これを…?」
ベッドに痩せた身体を戻して、自分が取り上げたそれを見つめる。
きちんと認識出来ていて、あの人に関する事だけに反応するキラ。
不意にそれを見つめるアスランの目が細くなった。たった今、思いついた事は親友にとって残酷だろうか。
このままの状態が続けば、キラはそう遠くない将来起き上がる事も出来なくなる。それどころか、二度と目を醒まさないかも知れない。本人はそれを望んでいるのかもしれないけれど、アスランを含めたキラを知る人間にとって、それは多分一番避けなければならない事態。
そうして今自分が思いついた事は、下手をすればキラを再起不能にしてしまうかもしれないことだったけれど。
「…試してみる…か…」
ただ、もう一度心から笑う顔が見たいだけだった。
もう無理だと判ってはいても、この状態から脱する事が出来れば、今度こそ本当に時間が解決してくれるはずだから。
それを実行するためには、もう一度キラの意識がある内にこれを取りあげなければならない。更に言うなれば、医師の許可も必要だと思うし、キラの事を気に掛ける人達の内、少なくとも何人かには知らせる必要がある。
しばらく考え込んでから、視界の端に入った点滴の先が虚空を漂っていることに気付いてコールボタンを押した。たった今キラの見せた変化を報告するためにも、抜けてしまった点滴を直して貰うためにも、看護士が必要で。
「…また来るよ。」
透けるように白い寝顔にそう呟いて、アスランはポケットから出したそれを元あった場所に戻して、廊下を小走りに近付いてくる看護士を迎える為に戸口に立った。
マトモな神経の持ち主は、きっとこんな時間にこんな場所にはいたくないだろうな、と思う。それでも、きっと昼間は誰かが訪れるかもしれないだろうと思うと、自分の姿を見られるのは困る。
晩秋の空気は冷たくて、薄いコートを羽織っていても吹き曝しの屋外に立っていると外気に触れる所から体温が奪われていく。
身体をかがめて、その冷たい風に曝されている固い大理石に触れる。刻まれた文字を指先で辿ると、あまりにも短い時間が読み取れた。
幾つも並んだ同じような石の中から、たった一つを暗闇で見つけ出して。
いつだったか、親友が持って来てくれた強い芳香を放つ白い花を片手に、もう片方には金属の欠片を握り締めて。
「…こんな所で、待ってるなんて卑怯ですよ。」
そう呟いて目を閉じる。
反応は、あの日と同じ。
「これ、要らないんだろう?」
そう言って銀色の小さなプレートを目の高さに掲げると、キラは取り返そうと手を伸ばす。
「返して…連れて、いかないで…!」
ほんの少しの意識変化で、まず大きく違ってきたのは睡眠時間。極端に少なかったそれは、自分の意思で行動したその日から多くなった。医師と相談して、全ての結果に自分が責任を持つからと言って許可を得た事を実行するまでに、更に一ヶ月かかってしまった。病室を訪れても、主は眠っていることが多かったから。
やっと訪れたチャンスに、アスランが躊躇うことはなかった。
キラが、あの人に関するものや単語に反応を返す事が判っていたから、敢えてそれを持ち出して。
「俺が連れて行くんじゃない、キラ。あの人が、この先にいるんだ。」
これはあの人じゃない、ただの存在証明だと、何度も言い聞かせて。闇雲に暴れるキラを押さえるのは簡単で、それでも看護士が止めに入る前になんとかしなくてはならなくて。
キラにとっては残酷かもしれない、けれど多分一番確実な方法。
親友を、この世界に引き戻すための。
「お前がここで何もしなかった間も、きっとあの人は待ってたんだ。お前が、自分であの人に会いに来るのを。…戻って来い、キラ。まだ、世界は続いてるし、おまえはここで、まだ…生きてるんだから。」
頼むから。
そう祈るように呟くと、不意にキラは動きを止めた。また意識を手放したのかと思って俯いたキラの顔を覗き込むと、呆然と見開かれた瞳から、静かにひと雫の涙が零れ落ちる。
「…キラ…」
今度こそ、はっきりと。
「…アスラン…?」
そう呟いた顔は、久し振りに見た良く知る親友のものだった。