さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
もうずっと見ていなかった景時の笑顔に、心に安堵が満ちる。過去を忘れることができないとしても、過去を引き摺ることはない。笑い合えるときが来たのならば、それでいい。――たとえ、この先何があるとしても。
「朔は、元気ですか?」
「うん、時々文をくれるけど、元気そうだよ。望美ちゃんにも、文を送っているみたいだったけど」
「はい。でも、あれ以来直接会うことはできなくて、それが残念」
「そうだね、オレも兄とは言え、なかなか尼寺に入るわけにもいかないし、朔も簡単には出てこられないみたいだから」
すると、景時も朔とはなかなか顔を合わせられなくなっているようだ。
源氏と平家の戦も、奥州と鎌倉の戦も終わりを告げた後、朔は京へ戻った。望美と出会ったときから彼女は尼僧で、そもそもは黒龍の神子として寺を出てきたわけだったが、全てが終わってからは、また静かに生きていくのだと、大原の寂光院へ帰ったのだった。
「何だか、変な感じですね。前はみんなでずっと一緒にいたのに、今はこんなにばらばらだなんて」
仕方のないことだ。
戦の最中には、ともに戦ってきた、だからともにいたのだけれど、全てが終わった今、それぞれが己の生き方を見定めて、道を違えている。寂しいと言ってしまえば、それまでだ。けれど、望美は自分の幸せは何かを考えたからこそ、他の仲間と別れたのだ。
「九郎たちは、平泉にいないんだっけ」
「はい。九郎さんと弁慶さんは、大陸を見てみたいからと、二年前に平泉を出てしまったし。リズ先生と敦盛さんは、いつの間にかいなくなってしまって」
「将臣くんと譲くんは元の世界に帰ったんだっけ」
「そう、譲くんはあちらに帰ったんです。でも、将臣くんは平家の人たちが心配だからって、彼らのいる場所に行ったみたい。実際に見て安心したら、元の世界に帰るかも知れない、なんて曖昧なこと言ってたけど、その後はよく分からないんです」
「将臣くんらしいかもね」
はい、と頷きながら、苦笑する景時に釣られて、こちらも笑ってしまう。
景時は、そうか、と小さく漏らした。
「本当にみんな、違う道を行ってしまったんだね」
よく晴れた空の先に何か見出すように、彼は視線を上げた。何を見ているのかは分からない。
「景時さんは、元気でしたか?」
思わず、訊ねる。
「――え?」
目を瞬いて、どこか驚いたようにこちらを見下ろす景時に、望美の方が僅かに驚かされる。彼は、自分の反応が大袈裟すぎたことに気づいたのか、ふいに視線を逸らした。
少し俯き、苦いものを口に含んだような顔を見せた。
「望美ちゃん、オレは」
「景時さん?」
不安が押し寄せてくるのは、何故なのだろうか。いや、そもそもが不安なのだ。鎌倉は、戦をしたがっていると、泰衡もヒノエも判断している。
「オレは、また君たちを、苦しめるのかも知れない」
優しく吹いた風が、何故か頬を冷たく打って行ったような気にさえなった。
景時さん、とまた唇を動かしたけれど、声は出てこなかった。戦になる、それは予見だけで済まされはしないようだ。
不意に景時の手がまっすぐに伸びてきて、息を飲む。突き出すように目の前にある彼の掌は、望美に向けて開かれている。
「お願いがあるんだ」
真剣な目をして、彼は言う。
「どんなことですか?」
「君が持っている、神の力を宿したものを、オレにくれないかな?」
望美は、大きく目を見開いた。心臓が、突然奇妙な音を立てた。そのまま、早鐘に変わる。
誰も知るわけがないと思ってきた。望美がいつも、その手に握っていたもの、その強い力を秘めたもののことは、これまで八葉や白龍にさえ話したことがない。密かに、手にしていた。そして、誰にも知られぬまま、運命を変えてきた。白龍の逆鱗のことだ――。
「頼朝様が知っているんだ、君の持っているもののこと」
その表情から、彼は望美の心中を察したらしい。その答えに、頼朝ではなくそもそもは既に亡い彼の妻が、その神力により、逆鱗のことを知ったのだろうと理解する。
望美は、頭を振った。
「渡すことはできません」
「どうしても?」
「――景時さんは、それを私から受け取って、どうするつもりなんですか? 頼朝さんに渡すの?」
もしそうであれば、ますます彼の願いを聞き入れるわけには行かない。
神の力を秘めている逆鱗には、時空を渡る力がある。過去に戻れば、全てを変えることとてできるのだ。してはならないこと、これは罪だと思いながら、それでも望美は、運命を塗り替え続けた。そして、今、ここに在る。この今を、誰かが変えてしまうのだとしたら、人の手に渡すわけに行かない。
(それに、約束だから)
望美は無意識のうちに、景時を強く睨むような目で見てしまっている。景時は、少し困ったような、小さな笑みを見せる。
「そうか、やっぱり、だめだよね」
「……どうして、逆鱗を必要とするんです?」
彼は望美の質問に答えることなく、諦める。食い下がられたいわけではないが、それにしても、あっさり引いてしまうのもおかしなことだ。
うん、と一つ頷きながらも、彼は答えることにに躊躇を覚えているようだったが、すぐに黙っていることもやめた。
「頼朝様に渡すわけじゃないんだ。ただ、オレにも、何かできるんじゃないかって思ったんだ。……未来を変えることもできるんじゃないかって」
「未来を、変えるんですか?」
まだ来てもいない時間のことを、彼は変えようと言う。首を傾げる望美に、だってね、と彼は続けた。
「戦はきっと避けられない。それを、変えられるのなら、変えたいんだ」
「景時さん……」
「朔は、寺に戻るときに、もう戦など起きなければいいと言っていた。オレもそう思うんだよ。……みんなそう思ってる。誰も戦いたいわけじゃない。でも、戦は起きてしまう。それを、変えたい」
その気持ちは、よく分かる。もう戦いたくない、もう人を斬りたくはない、ただ平穏に幸せに生きたいだけだ。しかし、望美はもう一度、首を左右に振って見せた。
「それなら、神様の力に頼っては駄目です、景時さん。私たちの力で、どうにかしなくちゃ」
「どうやって?」
「分かりません。でも、もう神様に頼ってしまうのは、やめたいんです。私たちは、自分たちの力で、生きて行かなければならない生き物なんだから」
白龍の力をずっと遣っていた。そんな自分が、こんなことを言うのは、きっと矛盾したことだ。分かっていて、それでも、言わずにいられない。神の力は人間の力とはまるで違う。それを借り受ければ、代償が必要になる。それは泰衡もよく言っていることだ。人が生きるために、本来、神の力は無理に引き出してこなければならないものではない。人は人の力で生きられるはずなのだ、と。
――約束だ。
泰衡の言葉は、この三年の間、いつでも蘇ってくる。決して忘れてはならないことだ。
「オレには、頼朝様を止める術が分からないんだ」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜