さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
苦渋に満ちた顔をしている。景時の掠れた声に、胸は痛む。望美もまた、戦いたくない。景時を敵にするのも嫌だ。仲間なのだ、たとえ前の戦で敵だったのだとしても、彼は八葉で、自分は白龍の神子だった。彼は望美を守ってくれていた。望美にとってもまた、守り続けたいと望んだ仲間の一人だ。また戦わなければならぬのかと思えば、辛い。それでも、彼に逆鱗を委ねてしまうわけに行かない。全ての未来を、神の力で捻じ曲げさせてはいけない。
「私は――」
望美は景時をまっすぐに見つめる。
「私は、今はもう、藤原泰衡の妻で、彼が愛するものを――奥州を守りたいと思っています。だから、もしも本当に頼朝さんが奥州に攻め入ると考えているなら、それが人の力で変えられない未来だと言うなら、戦います」
変わらない決意を、ただ告げる。
驚愕したような景時に、望美は小さな声で、ごめんなさい、と謝罪の言葉を投げかける。
「あの頃と今は、とても違う。私は、私のためだけに何かすることはできない。私は、守らなければならないものがあるんです」
「……望美ちゃん」
「それでも、守るために神様の力を借りたりしてはいけないの。私たちは人間の力で、その限界まで使って、生きなければいけない」
神の力は脅威だ。それを遣ったとき、どんな歪みが生じるのか、望美は未だに知らない。彼女自身が運命を歪ませてきた、その歪みがどういう形で現れてくるのか、まだ知らない。未来が正しい形で残るのか、それとも、過去の歪みの影響を受けるのかは、まだ誰も知らないことだ。その不確定が、見知らぬ他人を苦しませることもあるだろう。それは一人二人ではないはずだ。
「分かった」
景時は重い声で、こう応じた。
「臆病で何もできないオレだけど、うん――頑張ってみるよ」
ようやく、こう言って、僅かばかりの笑みを見せた景時に、望美も深く頷き返した。
戦を好む人間はいない。ただし、それをしなければならないと考える人間は少なくない。たとえば源頼朝然りだが、望美は己の夫も思い出すのだ。
目的のためには手段を選ばないところがある。そうしなければならないという意志が強い。
(それでも、人が傷つけば、心を痛めるくせに)
泰衡はそれすら表に出そうとしないけれど、望美はそれを知っている。数年間ともに在ったから分かる。あの戦で死んでしまった多くの誰か、その墓標を見るときはいつも、眉を顰めている。後悔の念が彼の中に生まれているとは思わないが、感傷を持たない人ではない。
「でも、もしも止められなかったときは、オレはやっぱり君たちと戦うことになる」
しかし、景時は強張った表情で、こう言った。望美は、驚かなかった。それは、考えずとも分かっていたことだ。それでも、分かっています、と応じた声は堅くなってしまう。
「景時さん、一つだけ、教えてください」
「どんなこと?」
僅かばかり緊張したように見える景時に、躊躇いを抱きながらも、問いかける。
「頼朝さんは、どうして京にやって来たんですか? これを聞いてしまうのは卑怯かも知れないけど、教えて欲しいんです」
彼は少し、目を瞠った。驚いたと言うより、聞かれたくなかったからこその反応に見える。
「法皇様に院宣を頂くため、だと思うよ」
「院宣?」
「そう。たぶん、戦を始めるために」
後白河法皇から正式に、たとえば奥州を討つための命令文書を頂こうというわけだ。
「だけどそれは、理由がなければできないことでしょう?」
以前からそうだったはずだ。源氏が平家を追討したこと自体にも、何かしら理由をつけていたと思われる。今、奥州を――藤原氏を追討する、その理由が何かなければならない。四年前の戦を引き合いに出すのだろうかと考えられなくはないが、そもあの戦は和議も済んでいることだ。覆すことはできないだろう。
「オレも、頼朝様がどうするつもりなのかは、分かっていないんだ。でも、何かしら手を打つつもりでいるんだと思う」
眉を顰める望美に、景時もやや消沈したような様子を見せる。
後白河法皇は、一筋縄では行かない人間だとも言う。しかし、彼の人が望むことが、もしも頼朝の望みと一致してしまったなら、どうなることだろうか。今度こそ、源氏と奥州藤原氏は、どちらかが本当に滅ぼされるまで、戦うことになるのではないだろうか。
四年前の戦の折は、院宣は下らなかったと聞く。あくまでも、棟梁である頼朝が、己が弟の不忠を償わせるために、逃げた九郎を追い、これを知りながら匿い続けた奥州と争った形になる。私的な戦であったと言える。しかし、今度はどうなるだろうか。
「今は、まだ分からない。法皇様も、事を慎重に運ぶとは思うんだ。何しろ、前は奥州が勝利したんだ。どちらの味方をする方がいいのか、きっと熟慮されるはずだから」
己の利はどちらにあるのか、後白河法皇はよく考えるはずだ。おそらく、即答などしないに違いない。慎重な人だという印象は、泰衡たちから彼の人のことを様々に聞いたからこそ抱いたものだ。直に会い、話を少ししただけでは、何も分からない。
けれど、恐れているばかりではいられない。まだ、未来は定まっていない。
「ありがとう、景時さん。それなら、私もできる限りのことをします」
「うん、オレも」
不安を抱きながらも、二人はどうにか口元に笑みを見せ、頷き合った。
それから、望美は先にこの場を離れた。二人がともに並んで、あの席に戻っては怪しまれてしまうだろう。足早に舞殿まで戻ると、楽の音を従えて、舞を披露する男性の姿があった。白龍の神子による雨乞いの舞以外にも、儀式は続いているらしい。
そっと、今度はただの観客として、ヒノエの隣の空いた席に入る。ヒノエはこちらを振り返り、小さな声で、
「見事な舞だったよ、神子姫様」
などと褒めてくる。ありがとう、とこちらも小声で返す。合図のように目配せをしながら、彼は視線を舞人に送る。望美も同じように、目の前で披露される舞を見つめた。
美しく楽の音色が響く中、ヒノエが口を開く。
「今宵だ」
一言だけ、そう告げられて、思わず振り返りそうになるが、堪えた。それは、暗号にも近いものだ。悟られぬように、努めて平静な顔を取り繕う。
「今宵開かれる宴の後、できれば二人きりでお会いしたいものだね」
ヒノエは妖しげな声で言うが、それは彼も演じているからだ。他の誰かが聞いたとしても、これが人妻を密やかに誘う言葉を操っているようにしか聞こえない。望美は彼を見る。ヒノエもまたこちらを見ている。やけに真剣な目をしていた。
「どうかな?」
今宵、二人きりで。
そうして会うのは、ヒノエと望美ではない。先程、景時も言っていたではないか。頼朝は後白河法皇から、院宣を賜ろうとしている。それを要求しようと考えているのだ。だから、ヒノエが言っているのは、頼朝と後白河法皇のことだ。この二人が会うことになっている、それならこちらはどうするか、と問われている。
「――いいよ」
ともに探りを入れる、と応じる。良かった、とヒノエは笑って見せたが、望美はそこまで余裕があるわけではない。舞を見ても、もうその美しさに感嘆できる心地はしなかった。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜