さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
宴の席に入れる人間は限られている。熊野の烏はどれほど衛士の堅い警護であっても、潜み入ることは可能だと言うが、それでも今は事を慎重に運ぶ必要がある。宴席の裏で、熊野の人間が潜んでいるなどと万が一にも見つかってしまえば、ヒノエが無事ではいられない。
すると、最も確実に探る方法は、宴に出ている人間が実行することだ。つまりは熊野別当と、陸奥守の妻である二人が動く。
夕闇が濃くなった頃、銀たち郎党を従えて法住寺殿を訪れた望美だったが、中に入れるのは自身のみだ。ここからは、ヒノエだけが頼りとなる。
ここでも女房の案内を受けて、宴の開かれている主殿へ向かう。下座の辺りの膳の前で、こちらでございます、と示されて座った。上座には既に後白河法皇が姿を見せていて、そこから両端にずらりと膳が並んでいた。膳の前にはそれぞれ、幾人もの貴族らしき人間の姿があった。頼朝は比較的、上座に近い位置に座っている。その向かいにはヒノエだ。さすがに二人は、位階と立場が上だけはある。
(従五位の妻だと、この辺りが妥当ということね)
夫の位階について文句を言うつもりはなかったが、今ばかりは、上座に見える人々の会話が気になって仕方がない。ちらりとヒノエに視線を送ると、彼もそれに気づいて、軽く手を上げて見せた。しかしそれだけだ。当然、彼としてもこちらへ来いなどと言えるわけはないのだった。軽く指を動かす程度に手を振る仕種を見せるのみだ。
宴を開いた本人、しかも上皇ともあろう人が、人が集まりもしないうちにそこにいることがまた奇妙なものだが、とにもかくにもそれから間もなく、宴は開かれた。
後白河法皇曰く、今宵は無礼講とする、という言葉があったためか、周りの人々は酒に肴に手を伸ばしながらも、周りの人々と歓談を始める。漏れ聞こえてくる話を聞くに、法皇が好んでいる風雅な趣味の話から、政のことまで随分とそれぞれ幅広いものだった。
知り合いはいても、彼が遠い席でどこかの誰かと話しているとあっては、望美としては、料理を味わうか、周りの雰囲気を楽しむ程度にしか、今はすることもない。法皇の御前では、笛を奏する年若い貴族の姿が見えた。
(敦盛さんはどうしているんだろうなあ?)
思い出した仲間の姿に、溜息をつく。リズヴァーンもそうだ。何も、別れの言葉すら交わすことなくいなくなってしまった人。
京と言う場所は、過去の様々なことを思い出させる。戦のことを思い出せば辛いけれど、仲間たちと笑い合っていられた日々を思い返せば口元が綻ぶ。それから、今はこうして皆がそれぞれの違う道を歩んでいるのかと思うと、僅かな寂寥感が膨らんでいく。
不思議だ、と思う。この世界は生まれ育った世界ではない。けれどもう、この世界こそが生きて行くべき世界。この世界、この国、そしてあの人の隣、そこが望美の居場所だ。
「いやしかし、白龍の神子様の舞は素晴らしかった」
ふいに耳に飛び込んできた言葉に、はたと我に返る。隣の席と、さらにその向こうに座る貴族がこちらを見ていて、目が合う。
「さすがは龍神の愛し子、才に溢れていらっしゃるようだ」
「……いえ、私など、とんでもありません。まだまだ未熟の身でございます」
敬語の使い方も態度も、元々はあまり丁寧なものとは言えなかった望美も、泰衡の妻となってから、上に立つ者の妻としての振る舞いを随分と教え込まれてきた。特に、泰衡の目は厳しく、夜になると閨で睦言よりも明らかに多く、小言を聞かされてきたものだ。
「以前もこうして披露なさっていらしたのを、私は拝見したことがございますよ。院も仰られたが、真にさらに美しくおなりで」
「過分なお言葉にございます」
握ったままだった箸を膳に置いて、頭を下げる。さらりと落ちた髪の一筋を掻き上げながら、武家の妻らしく柔らかに微笑んでみせる。それらしく振る舞うことさえできれば、望美も宮中の女房としても生きて行けるだろう、と泰衡は言う。男を惑わすも、操るも、簡単にできるのではないか、というのは褒め言葉として受け取って良いものかどうか悩ましいところだったが、着飾ればそれなりの外見だ、という意味合いらしい。
望美の微笑みを前に、貴族の二人は、気を良くしたように、これはこれは、と笑った。
「神子様のような方を妻とされた陸奥守殿が、実に羨ましいものです」
いえとんでもない、と濁しながら答え、愛想笑いを隠すように遠慮がちに頭を下げるしかなくなった。
(……でも、こういうのはやっぱり苦手です、泰衡さん)
ここにはいない人に、思わず言いたくなる。やはり、宮中で生きるのは難しい気がした。
宴は賑やかだ。楽の音色も響いているし、思っていたよりは楽しい雰囲気だ。しかし、気掛かりなのは上座の人々。後白河法皇に、源頼朝。少々視線を送ってみても、それほど多く会話しているようには見えない。寧ろ、よく話しているのは、ヒノエだ。後白河法皇も周りの貴族も、どうやら彼の冒険譚らしきものを興味深く聞いている。向かいの頼朝はと言えば、彼も静かに酒を飲んでいるようにしか見えない。
(院宣のことなんて、今話すわけはないんだろうけど)
しかし、ついその様子が気になってしまう。
そのとき不意に、ヒノエが目配せするようにこちらを見る。何か意味があるのかと首を傾げていると、彼は後白河法皇に何やら話しかけている。どうしたのかと思っていると、今度は法皇がこちらを見て、手招きを始めた。
頭を下げる仕種をもってから、望美は立ち上がり、上座へと近寄った。
「何か御用でしょうか?」
法皇の前に進むときも回りの視線が痛くて緊張したものだが、話しかけるのもまた心臓に悪い。この宴の中、唯一の女であるのもやりにくいところではある。何より、左手には頼朝が座している。意識がそちらに行きがちだ。
「なに、用というものはないが、先程も言ったように、以前よりも舞が艶やかになった理由を聞きたくなったのだ」
「……理由ですか?」
「あの頃は未だ若い娘らしい気質を持っていたようだが、年を重ねたことが要因ではあろうが、平泉にても師に恵まれておったのかと気になったのだが」
望美の舞の師と言えば、朔しかいない。だが、彼女に舞を教えてもらったのはもう随分前のことで、平泉で暮らすようになってからは、時折、義父の秀衡に乞われて舞っていた程度だ。残念ながら、夫たる人は望美に舞を見せて欲しいなどと言ったことは一度もない。練習もそれなりに重ねてはいるが、本格的に学んだとは言い難い。
「いえ、特別なことは何も」
「では天賦の才ということであろうか」
それほどのものだろうか。舞は剣を扱うこととほぼ同じような感覚のもので、たとえば女の身では男に比べて力が足りない。その代わり、俊敏にしなやかに動けるように、舞を熱心に学んだと言っても過言ではない。舞うようにひらめいて戦う、それが望美の剣の特徴だった。もし舞が上手くなったのだとすると、時々奥州武士に混じって剣の稽古など続けていたからだろうか。
しかし、こんな話をすると、雅を愛する人に眉を顰められそうだ。泰衡も、本当のところ、望美が剣を扱うことに対していい顔はしていない。
「龍神に愛しまれた神子ですから、やはり違うのだと思いますよ」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜