さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
脇から、ヒノエが調子良くそんなことを言っている。彼は、実際のところ望美が普段どうしているか、知っていそうだ。
「なるほど、やはりそうであろうか」
「いえ、そんなことは」
「ところで、神子殿は今様などに興味は持っていまいか?」
「……は、今様ですか」
そうだ、と後白河法皇は頷いてみせる。ちらりとヒノエに助け舟を求めるように、視線を流してみたものの、彼は肩を竦めて見せるだけだ。自分で切り抜けるしかないらしい。
「今様と言いますと、以前、夫に薦められて、梁塵秘抄を拝見いたしました」
「おお、あれを読んだか」
「ちゃんと学んだわけではないので、詠うことも舞うこともできませんが、――恋しとよ君恋しとよゆかしとよ逢はばや見ばや見ばや見えばや。これには共感するところがありました」
恋しい人に会いたいという気持ちだけを、ただ切に訴えるこの歌。
ちょうど泰衡に、後白河法皇から万一にも京へ招かれたときに、相手の気分を良くするために知っておいた方がいい、とこの趣を知るためでも何でもなく薦められたのだったが、この他に数首ほど覚えておいた。他のものはいまいち理解しきれずに終わっている。
「これは、そなたも存外激しい想いを抱く質であったか」
「え、ええ、その……我が夫は忙しい身の上で、なかなか会えぬこともありまして」
なるほどなるほどと、後白河院はこれだけで満足してくれているようだ。ほっと息をつく。
「ですが今はただ、――神ならばゆららさららと降りたまへ、いかなる神か物恥はする。このような心持ちにございます」
もちろん、今日の雨乞いの舞で、白龍が応えるわけはなかったのだが、それでも、法皇の意に沿えなかったことは事実だ。神よ恥ずかしがらずに我が元へ降りたまえ、と。
「神は乙女に降るものと言われている。そなたは既に人の妻。神が声を聞けずとも、致し方のないこと。今まで長く断り続けた陸奥守も、そなたに恥をかかせまいと考えてきたのだろう。無理に呼び立ててすまなかった」
「……痛み入ります」
情けをかけるようなことを言われ、この人は本当は優しい人なのだろうか、とも思う。しかし、それでいてやはり、計算高いところがあると、泰衡もそしてヒノエも言う。どんなに優しく微笑もうとも、腹の底では何を考えているか分からぬ相手だ。
今の自分も、同じようなものか。それでも望美は、まだこういったことに慣れたわけではなかった。男同士、腹の探り合い、そういう政の仕方を理解するのは、女の望美には難しい面も多い。
「鎌倉殿は、今日の神子の舞は、如何であった?」
いきなり後白河法皇は、矛先を頼朝に切り替えた。はっと、息を飲みかけながら、望美は左を見やる。頼朝は、驚いた様子もなく、以前と変わらず落ち着いた様子で、ええ、と頷く。
「さすがは白龍の神子の舞、誰もに讃えられるものであることを理解したところにございます」
彼がこれほど丁寧に話しているところを見たのは、初めてのことだ。この答えに、後白河法皇はやはり、そうであろうと快い様子で頷いてみせる。
頼朝は望美を見る。相変わらず、その目は冷たい目をしていると感じた。ぞくりと肌が粟立つような感覚は、恐怖にも似ている。だが、これを堪えて、望美は頭を軽く下げた。
「ありがとうございます」
礼の言葉に、頼朝は頷きもしなかった。ただ、意味ありげに口元に浮かんだ笑みが歪んでいるのだけは分かる。その冷たい双眸が、自分を蔑んでいるように思われた。
望美は挑むように、後白河法皇へと視線を転じた。
「法皇様、もしお許し頂けましたら、今この場で、もう一度舞ってもよろしいでしょうか?」
「もう一度、雨乞いをすると?」
「今は宵、神に声が届くか否か分かりませんが、神も夜の帳にならば隠れて降りてきてくださるかも知れません」
神降ろしの今様のように、姿現すことを恥じるのであれば、その姿を隠す夜闇のあるうちが良い。こじつけるように話してみると、それは良い、と法皇は上機嫌に笑った。
「いま一度、舞うこと、許そう」
望美はありがとうございます、と告げてから、立ち上がる。扇はいつでも、袖の下に入れてある。これを取り出し、驚いているらしいヒノエを見る。いつものヒノエを真似て、器用に片目を瞑って見せた。
舞を舞うなど、白拍子のすること。武家の、それも陸奥守や鎮守府将軍たる夫を持つ身で、遊び女のように人前で舞うなど、頼朝からすれば蔑むように見るような相手なのかも知れない。それならば、ますます挑んでみたくなる。負けず嫌いの気質が出た。それでも、冷静ではある。
詠吟の歌もなく、楽の音もない。それでも、望美は舞扇を広げると、舞った。
(白龍、もし私の声を聞くなら、……雨を)
聞くはずはない。既に望美のためにこの世に降る神ではなくなっている。それでも、願ってみる。もしもこれで雨が地上を濡らしたなら、龍神は確かに未だ、神子の声を聞くのだと、朝廷の人々にまで知らしめられる。
(私は、今も白龍の神子なのだと)
泰衡曰く、あなたを娶ったことには理由がある、とのことだ。
つまり、この国を広く守る龍神の、その神子を妻とすることで、奥州を狙う輩を牽制したい、と言う。奥州には龍神の加護があるのだと、それゆえ下手に手出しすれば神罰が下るのだと、思わせたいのだと言われた。
(結婚前に聞かされたときは複雑な気持ちになったけど……)
それならば泰衡にとって望美を娶るというのは、ただ他の力ある人間に対抗するための武器にするという意味合いでしかないのだろうか。そう思ったら妙に腹が立ち、悲しい思いもしたものだ。
それでも、今はこうしていられる。
(あの人は私をちゃんと、大切にしてくれているから)
気質が合わなくて、喧嘩に発展することは多々あるけれど、嫌われていることもない。自分は愛されているのだと思うこともある。だから、彼が望美を妻としたのには、神子だからという以外に、望美が望美であるからという理由も含まれていたことを、今は理解している。そも、ただの異界の娘を――身分のないものを――、奥州を束ねる立場にいる泰衡が娶るなど、普通に考えればあり得ない。たとえ泰衡自身が望美を愛しても、娶るか否かは、望美の立場にかかっていたはずだ。そして、望美は白龍の神子だった。
(白龍の神子の私が泰衡さんと出会ったから、私は彼と一緒にいられた)
もしも望美が、神子でなかったのなら、泰衡と婚姻することはあり得なかっただろう。彼にとって結婚は、己の感情だけの問題ではなく、四代続いてきた血筋を長く保つためのものでもある。
(……白龍、だから私の声を聞いて。願いを聞いて)
わがままなことだ。聞かないと分かっていて、それでも願う。そして舞う。
宴は、小さな喧騒とともにお開きとなった。
「驚いたね」
ヒノエが感嘆したように望美を見つめながら言うので、望美もまた同じように半ば放心したような顔をして、うん、と深く頷くしかなかった。
夜は既に深く更けている。傘を差しかけながら、武士に囲まれて道を行くところだ。
二人が傘の隙間から見上げる空には、さらさらと霧雨が降っている。静かに吹く風は少し冷たい。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜