さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
宴の最中、望美が舞い始めてからしばらくして、外にはしっとりと雨が降り出したのだった。宴の席にいる誰もが、驚嘆していた。そして誰よりも、望美自身が驚いているところだ。白龍が本当に声を聞いてくれたのか、それともただの偶然なのか、定かではない。しかし、後白河法皇も周りの貴族のほとんども、白龍の神子の祈りが通じたのだと思い込んでいるようだ。
「私が神子だからってわけじゃないと思うけど」
「偶然にしても、いい効果だったんじゃない? 奥州には未だ龍神の加護を得ている神子がいる、そう思い込んだ奴もいる。誰も、下手な手出しはしないかもね」
「そうだといいんだけど……」
半信半疑にしろ、あの場に集まっていた貴族のほとんどが、神子の舞により雨が降った、それを体験したわけだ。心の底から信じたわけではなく、疑わしく思っても、それでももしも奥州に攻め入ろうなどとした場合、万が一にも龍神から災厄がもたらされないとも限らない、と不安を抱いた人間も多かったに違いない。
「でも、あの人は決して、諦めないと思うんだけど」
「ま、そうだろうね。けど、この雨のお陰と言うべきか、雨のせいだと言うべきか、今夜は動きがなくなったけどね」
後白河法皇は、降る雨に驚いて、すっかり宴を楽しむことができなくなってしまったようだ。昼間は、雨が降らず残念だと言ってた割りに、いざ降ってみれば恐れをなしたのか。頼朝と密やかに話す約束を反故にしてしまったようだ。お陰で、頼朝が本来どういった話を法皇に持ちかけるつもりだったのか、知れないままとなっている。
差し伸べた掌に、細かな雨粒が落ちてくる。
「明日には、私、もう平泉に帰らなきゃいけないし、結局、何も分からなかったな」
「鎌倉殿もどうやらそのつもりみたいだしね。ま、仕方ないさ」
そうだね、と答える。あとは今夜、ゆっくり休んで、明日から始まる平泉への帰路を思うだけだ。
しかし、ふとヒノエが、そういえば、と話し出す。
「宴が始まる直前、オレが席に着くときまで、鎌倉殿と法皇様が何やら話していたみたいだったね」
「あんな人の多い場所で、秘密の話ではないよね?」
「そのはずだけど、逆に堂々とそれと知れない言葉を遣って話すことは可能だ。オレとお前が昼間、そうしていたようにね」
言葉を上手く飾り、当人同士だけで通じるように会話するというのは、確かにそう難しいことではない。互いが事情をよく知っていればいいだけだ。
眉を顰める望美に、ヒノエは語る。
「そろそろお返し頂きたい」
「――え?」
「頼朝がそう言っていたのさ」
「返す?」
「そう、何かを返して欲しいってね」
それだけでは、意味が分からない。頼朝が法皇に対して何か貸していたのだろうか。いや、貸しを作っていたのだろうか。たとえば平家との戦は、そも後白河法皇から出された、平家追討の宣旨があったためだ。その法皇の声に応えたことになった彼が、ここで何か要求してもおかしくはない。
「実際、話はそれだけしかしていなかったように見えたからね。もし院宣でも欲しいのなら、もっと明確に会談でもするのかと思っていたけど、実はそうじゃないのかも知れないよ」
「どういう意味?」
「そう、返して欲しいってのは、もしかすると、そういうことなんじゃないか?」
ヒノエは独り言のように呟いている。望美は置いていかれた気持ちになり、どういうことなの、と訊ねる。ヒノエはその声を耳に入れながら、ああ、と応えながらも、一人で考え事をしている顔になる。やがて、望美の顔を見て、つまり、と口火を切った。
「鎌倉殿が返して欲しいのは、奥州じゃないかってことさ」
目を見開く。
もしそうであったとしたら、頼朝と後白河法皇が二人きりで会ったりせずとも、話はあの場で切り出されていたことになる。
「だけど、そんなの法皇様が決められることなの?」
「さあ、どうだろうね。大体、泰衡が陸奥守でいられるのは、法皇様が認めて下さったからだろ? 今の主上も形ばかりのもんになってるわけだし、全ては法皇様の手の内ってわけだ」
「それでも、簡単に理由もなく変えられるわけじゃないでしょう?」
「そう、何も問題がないのに陸奥守を鎌倉殿にしてしまったんじゃ、朝廷が鎌倉の言いなりで力のないものだと広めるようなもんさ。ただでさえ、武家の力は強くなってきていて、貴族たちも不満と怒りを持ってるんだからね。けど、真っ当な理由があればいいんだ」
ヒノエの目にも表情にも、からかうような色はなく、心中に不安が広がっていく。
「過去に陸奥守に就いていたのは源氏だ。源氏は奥州の藤原氏の祖となった清衡公に借りがある。そも武家として藤原を己の従者だと思っていた。事情が変わって時を経て、今は藤原の力は強大になったけどね」
「それが、今さら何だって言うの?」
借りと言っても、百年も昔、過去のことだ。今さら持ち出すような話ではない。
「ある意味大義名分には十分だと思うよ。奥州藤原氏は、源氏の従者でありながら、九郎義経を差し出せという命令に従わなかった。しかもそれを戦にまで発展させた。さらに主の妻はそのために死んだ。藤原氏は主たる源氏に逆らい続けている。それゆえ、こちらで処罰するのだ、と」
「そんなの――!」
勝手な話だ。しかし、それでもね、とヒノエは皮肉な笑みを浮かべた。
「もしそれが成り立つなら、今度は院宣も必要ない。自分の従者を処罰するのに院の言葉など不要だろ」
望美は思わず頭を振ったが、それはヒノエの言葉を否定するためではない。聞きたくなかったのだ。そのようなことが罷り通るのが、武家の社会だと言うのか。
「だが、藤原氏は今や奥州での力も強大で、下手に手を出せないってのも事実だ。前の戦が不利な立場で終わってるから、周りの豪族たちはまず奥州につくだろうことは間違いない。――だから、敢えて院宣を欲しがってる」
朝廷からの命令があれば、周辺の豪族も敢えて朝廷に背きたいと思わないはずだ。朝廷を味方につけている源氏につく方が得策に決まっていた。
ぞくりと、寒気がする。肌が粟立った。
「法皇様はそれを受け入れると思う?」
「そこが微妙なとこさ。奥州から今、朝貢として様々なものが流れてきている。そのお陰で都は潤ってる。少なくとも、法皇様や一部の貴族はね。それなのに果たして鎌倉に奥州を討たせていいのか? 難しいところさ」
それに、とヒノエは付け加える。
「今宵、奴らはお前に宿る神の力を目の当たりにしちまった」
「――そんなのじゃないよ、たぶん」
雨はただの偶然、その可能性の方が明らかに高い。しかし、ヒノエは笑いながら、そういう問題じゃないのさ、と言う。
「さっきも言ったろ? この雨が神力によるものかどうかの真偽が分からないんだよ。だから余計に、疑心暗鬼に囚われる。今、奥州に神子がいて、攻め入ってしまったら、それを許してしまったら、何が起こるのか、不安に駆られる」
後白河法皇が驚愕し、宴を楽しむ余裕すら失してしまったのは確かだ。その直前に頼朝に囁かれていた「返して頂きたい」という言葉と、望美が――いや、奥州が受ける神の加護を、天秤にかけねばならなくて、迷っているのだろうか。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜