さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
第三章
京から平泉までの道のりでもまた、望美は輿には乗らなかった。自ら馬を駆る帰路とした。往路と異なることは、望美がすっかり無口になっていることだっただろう。
馬を休めるために止まる度、銀は随分と望美を心配して、京へ上ろうとしていたときよりも多く、体調は如何ですか、具合は悪くありませんか、と訊ねてきた。
それでも、取り繕うような笑顔で、何でもないよ、と答えるので精一杯だ。
ともに平泉へ帰る銀以外の者も、望美とヒノエの先日の夜のやり取りを聞いていたはずだから、それぞれに思うところがあるだろう。戦う意志をしかと固めているかも知れないし、あるいは望美のようにただ不安に駆られている者もあるだろう。しかし、直截的にそのことを語ろうという人間は一人もいない。全ては、まだ決まったことではない。あくまでも、ヒノエの予想だ。
(ヒノエくんは、私なんかよりもよく、鎌倉や朝廷のことを知ってる)
そして、発言などから軽そうに見えて、実によくものを考える人なのだ。その彼が描いた未来の絵図には、奥州と鎌倉の戦が見えていた。後白河法皇がどういった選択をするかが、全てを決する可能性は高い。今、彼の人は奥州を滅ぼすことに躊躇を覚えているとヒノエは言う。しかし、もし違う決断をしてしまったら、不利なのは奥州の方だ。望美にはまだ感覚としての理解が追いつかないところだが、朝廷とは大きな存在で、決して逆らってはならぬ相手なのだ。いや、泰衡に言わせれば、こちらがあちらを操る、というほどの心積もりや心構えが必要な相手らしい。
愛馬の雪路の背に跨り、緩やかに走る。隣を、同じように馬で行くのは銀だ。時折、こちらの様子を窺っていることは分かっていた。銀は泰衡の郎党の一人だったが、人一倍忠誠心に篤い。気遣いも人より深く、何にでもよく気がつく。望美の体調や気持ちの変化一つも、彼の目に留まることは多い。下手をすると、夫よりもよく気づいているのではないだろうか。銀は、泰衡様は気づいていても直接口にされないだけでございます、と言う。銀を通して、あるいは女房たちを通して、望美のことを気遣っているのだと明かされたことがあったが、果たして真実かどうかは分からない。
「もうすぐ、平泉に入りますね」
銀は望美の視線に気づいて、微笑んだ。
「やっと帰れるね」
一月ほどの旅路だった。馬を使ったお陰で、初めに想定していたよりは短期間となったが、それでも長かった。
「泰衡様も、神子様の帰還を、今か今かとお待ちになっている頃にございましょう」
「それはどうかな。仕事に忙しくて、私のことなんかちっとも考えていないかも知れないよ」
彼の場合、仕事の鬼という言葉がよく似合う。この世界にそんな言葉があるかは知らないのだが、とにかくあの言葉がぴったり張り付いているような男だと思う。一つのことに没頭して周りが見えない、というほどの人ではない。ただし、それは己の執務、つまりは奥州の発展と平穏のために己がすべきことであれば、同時にいくつものことを考えられるようだった。けれども、ここに私的な事柄が混じると、一変する。彼はとにかく、己に課されたことにしか興味がないようで、私的なことは全く考えに入れられなくなる。そういう意味では、彼の妻たる望美は、後回しにされてしまうことが多い。三年の間ですっかり慣れてしまったことだが、それにしてもこれほど虚しい気分になることもない。
(そういう人を好きになったのは、私なんだけどね)
だが、泰衡の克己心の強さは半端ではない。そも、己のためだけの、他の誰のためでもない欲など、持っていないのではなかろうか。彼の望みはただ、奥州の発展と安寧、それしかないように見える。三年間ともに生きてきても、他のものが見えてこない人なのだ。
本人の欲がない分、妻のささやかな願いを聞き届けてくれてもいいのに、などと思ったことも多々あるものの、叶えてくれたことも多くない。
結局のところ、泰衡は己のために生きるよりも、奥州のために身を尽くして生きることこそが、最大の幸福だと思っているということだ。
「でも、少しは私がどうしているか、考えていてくれてたらいいんだけどね」
これもささやかな願いの一つだ。これくらい、少しは叶っているといいのだが、さてその如何については、本人に訊ねたとしても、回答は得られないかも知れない。
くすりと、銀はそっと笑ったようだ。他の武士たちも、緊張したような雰囲気を解いて、望美の言葉に笑っている。故郷が近づいて、安堵してきたのもあるだろう。だが、今まで彼らの気持ちが沈んでいたのには、彼らの主の妻たる人間が、不安を抱いていることを全て表情や態度に表していたためかも知れない。銀には随分気を遣わせ、その上、ともについて来てくれた男たちに不安を振り撒いていた。
申し訳ない、と謝罪するよりも、今は笑って見せる方がいい気がして、望美はようやく口元に笑みを刷いた。
「早く帰らないとね。万が一、泰衡さんが寂しがって寝つけない夜を過ごしていたら、大変だもの」
「そうでございますね」
銀だけでなく、他の者たちも、頷いている。こんなこと、泰衡が知ったら盛大に眉を顰めそうだが、今は本人もいない。他の者も、素直に望美の意見に賛同してくれる。もちろん、真実はおそらく、望美がいなくてもぐっすり寝つけているのだろうが。
やがて今は祭祀の折に活躍するだけになった大社が見えてきた。かつてあの場所で、望美は泰衡の戦う姿を見たのだったと思い出す。
(いつから好きになったんだろう?)
彼と出会い、彼を想うようになってから、ずっと己に問いかけてきたこと。けれども、明確な理由など、一つも出てこない。ただ、望美はどうしても、彼が愛しいと感じて止まなかった。何より、傍にいたいと思った。
藤原泰衡と言う人は、一人でもしっかりと立って、生きていける人間なのだ。傍に誰もいなくても、奥州のため、迷うことなく己の意志を持って、生きていくだろう。
(独りで生きていける人だから、私だけは傍にいたいと思った。役に立たなくてもいい、邪魔になってしまうとしてもいい。孤独の中で生きていける人だから、だから、孤独ではない人生を教えたかったの)
誰かが傍にいれば、孤独でなくなるのかと言えば、そういうわけでもない。けれど、望美は彼の心の領域に入り込みたかった。誰とも情を交わさなくても、彼は孤独に耐えかねて死ぬ、などという弱しい人ではなかった。けれど、孤独でない生き方を知って欲しかった。誰かが傍にいて、自分を愛してくれている、そういう人生がどんなものなのか、そのときどんな気持ちになるのか、それは人それぞれだけれど、そういったものを与えたくなった。
泰衡の傍らで、生きたいと思った。故郷を捨てても、そうしたくなった。運命だったと言ってもいい。過去へと時空を遡り、何かを歪めて手に入れたものだとしても、彼は望美の運命だ。確信を持ってそう言える。
やがて平泉に入る。田園に見える人々が、数頭の馬が道を駆けていくのを見て、指を差しているようだ。神子様、と呼ぶ声が聞こえ、ちらりと振り返る。おかえりなさい、と舌足らずに言いながら大きく手を振る童たちに、こちらも笑って手を振った。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜