さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
やがて、柳ノ御所が見えてきた。先触れを昨日出しておいたから、今日帰ることは、泰衡も知っているはずだ。
(私だったら、夜も眠れず過ごしてるんだろうな)
泰衡が一ヶ月もどこか出かけてしまって、明日帰ってくるなどと知ってしまっては、その夜は寝つかれずに過ごすことだろう。しかしもちろん、泰衡にこれを期待するのは誤っている。これは気質の問題であって、たとえば互いを思う気持ちを天秤で量って、望美の気持ちの方が重いから、ということではない。たぶん、そうだと思う。
御所の門前に辿り着くと、門衛たちが、おかえりなさいませと笑顔で出迎えてくれる。静かに開いた門には、馬を降りて入る。入るとすぐに、雑色が望美から手綱を受け取り、雪路を厩へ引いて行く。
ここは常の居所ではなく政庁だが、それでもそれなりに親しんだ建物に、ほっと息をつく心地だ。銀を従えて、望美は最奥へ向かうと、ふいと舎人が現れて、ご案内申し上げます、と先導される形になった。もちろん、案内など必要ないほど見知った建物の中なのだが、舎人がこうして出てきたということは、望美が急に泰衡に呼び出されて、京行きの話を聞かされたときのように、人が集まっているのだろう。
「皆様こちらにお集まりでございます」
丁寧に礼を取られ、奥方様ご帰還にございます、と舎人が下がる御簾のあちら側に呼びかけると、入れ、と泰衡の端的な声が聞こえた。
(一ヶ月振りだ……)
その声を聞くだけで、ああ帰ってきた、とまた深く実感できる。
舎人がゆるりと押し上げた御簾を入ると、泰衡を上座に据え、郎党らが幾人か、両端に並んでいる。その間を進み、望美は陸奥守の前に、膝を折って頭を下げた。銀も同じように、数歩分背後で、同じようにしている。
「只今、戻りました」
「ご苦労だった。それで、鎌倉の動きはどうだった?」
「明確な動きはありませんでした。でも、ヒノ――熊野別当殿が聞き及んだのは、鎌倉殿がただ一言、法皇様に返して頂きたい、と言っていたとか」
「……なるほど、返す、か」
泰衡にはすぐに何のことか分かったのかも知れない。望美と違い、己の一門の祖のことを、そして鎌倉が仕掛けてくる理由など、初めから想定しているのだろう。
「恐れながら、後白河院や貴族の方々におかれましては、奥方様の舞により雨が降ったことに、いたく驚かれていたとか」
銀が付け加える。望美とヒノエが話していたことを、よく聞いていたらしい。
ふと視線を上げると、泰衡は口元に僅かばかりの笑みを見せて、これにも頷いて見せた。
「分かった。詳しいことは後で聞こう。今は旅の疲れを取るように」
落ち着き払った泰衡の言葉に、ありがとうございます、と銀は応じ、そっと辞そうとしていた。けれども、望美はまだ半ば頭を下げたような状態でいた、その顔を上げて、一ヶ月振りとなる夫の顔を、よくよく見つめた。それに気づき、泰衡は眉を寄せた。
やっと、帰ってきた。
望美は唐突に立ち上がり、泰衡の目の前まで近寄った。その勢いのまま、雪崩れるように彼に抱きついた。予想していなかった出来事に、泰衡は体勢を崩して背後に倒れかけたが、どうにか寸でのところで、床に手をついて、自身と、抱きついてきた妻を支える。
「あなたという人は……」
呆れたような声が、耳元に聞こえる。冷たい言葉を聞いても、腹を立てる気持ちより、こうして触れられる喜びが勝った。
「泰衡さん、会いたかった!」
大袈裟なほどに叫んだ。
彼の首に回した腕に、もっと力を込めたくなるほどだったが、これ以上首を絞めては、引き剥がされそうだ。それでも、離れたくはなかった。人前だろうと、当主の妻らしい行動でなくとも、もうどうでもいい、構わない。泰衡が、旅の疲れを取るようにと言った時点で、役目を解かれたようなものだった。京へ送られた白龍の神子ではなく、泰衡の妻に戻った。
溜息の音が、大きく耳を打つ。その音に我に返るように、背後に視線をやると、そこにいたはずの郎党たちの姿はなくなっていた。
「……あれ?」
「銀が余計な気を回した」
やっと体勢を立て直しつつ、泰衡は苦々しげに答えた。どうやら、銀が他の郎党たちに、退室を促してくれたのだろう。
僅かに腕を緩めて、間近に見る泰衡は、非常に不満そうだ。眉間の皺はいつも以上に深く刻まれている。苦虫を噛み潰したような顔を見せている。
けれど望美は、口元に広がる笑みを抑えられはしない。
「寂しくなかったですか?」
訊ねてみると、泰衡はすっかり呆れた様子で、
「全く問題はなかった」
と答える。これは予想どおりだ。分かっていたから、少しも怒りを覚えない。会話している、声が聞ける、聞いてもらえる、それだけで妙に嬉しい。
「私は、とても寂しかったの。いつも傍で眠っている人がいないから、すごく、寂しかったんです。暖かい陽気なのに、何だかとても寒いくらいだった」
笑いながら言うけれど、これは本当のことだ。景時にも疲れているのではないかと心配されたけれど、それは一人寝の夜を過ごして、眠れなかったせいだ。
泰衡に半ば圧し掛かるように抱きついているから、彼の顔を見下ろすようになっている。望美は首に回している手を少し上へ移動させ、その長い髪に触れてみた。少し堅い感触の髪質を、さらりと撫ぜる。
すると、泰衡は溜息を深く吐き出した。ようやく彼の腕もまた、望美の背に回されて、その長い指も望美を真似るように彼女の髪を梳いていく。安堵して、目を閉じて、その感覚だけを味わいたくなる。
もう少し引き寄せられて、望美はその流れに身を任せ、彼の胸元に頬を寄せた。耳を押し当てれば、彼の鼓動が聴こえる。ここが、自分の居場所だと、いま一度実感する。
「ただいま、泰衡さん」
万感の想いが籠もったような声で、もう一度告げる。
何も言わない泰衡だけれど、彼は望美の背を優しく撫ぜて、そしてそれまでよりもまた少し強く、抱き寄せてくれたので、それだけで満足だった。
一人でも生きていける人だから、傍にいたい。誰かとともに生きることを知って欲しい。その喜びをともに分かち合いたい。
藤原泰衡と言う人を好きになって、彼の傍で生きようと思った、その最大の目的は、果たされつつある。
***
京での源頼朝の様子は、次の日には、泰衡にも詳しく知らされ、また他の武士や郎党たちが探ってきた内容も含め、藤原氏の一族郎党たちにも伝えられたが、それより一月余りが経過しても、未だに朝廷側は目立った動きをしていないようだ。京にもともと送り込まれている間諜から、その後を知らせる連絡もないままだ。
ただし、備えは万全にしておかねばなるまい。鎌倉自体の動きが怪しい以上、何もないまま終わる可能性は低い。
陸奥守である藤原泰衡は、奥州の南に位置する阿津賀志山に元からあった防塁を、二重の堀と三重の土塁とするよう命じた。鎌倉が北を目指すには、ここを避けて通ることはできない。ここが堅固であることは、重要な意味を持つ。四年前の戦は、平泉が直接の戦火を被ることとなった。それは泰衡がどうあっても鎌倉に勝つために、必要なことでもあったのだが、今回ばかりは平泉よりずっと南、奥州の端で終わらせたいと考えていた。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜