さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
第一章
奥州平泉にも、遅い春が訪れていた。川向こうには咲き乱れた桜に彩られた山並みが見え、川には散った花弁が浮かんで、薄紅に染まっている。
朝夕はまだ冷え込むものの、大気は確かに温もりを抱いている。
望美にとって、この地で春を迎えるのは、五度めのことだ。
初めて平泉に足を踏み入れたのは、秋のことだった。辺りの山稜が皆、紅葉して燃えるようだったことを、今でもよく覚えている。やがて冬へと季節が移り変わり、景色が日毎に雪に覆われるようになってから、奥州における合戦が始まった。春を迎える前に、戦自体は奥州側に僅かばかり有利な形で終結し、春には和議も結ばれた。
それ以来、この四年の間、奥州に争いはない。
戦によって失われたものは、取り戻すことなどできないものばかりだったけれど、今、形に残る戦の痕跡は、あの春にいくつも立った墓標くらいのものだ。けれど、それが大きく重いものでもある。
――風が渡る。少し冷たい。
「奥方様」
呼びかけられ、望美は風に靡いた髪を押さえながら振り向いた。
銀が、静かに頭を垂れる。
「そろそろ、参りませんと」
申し訳なさそうに言われ、分かった、と素直に頷き、先に歩き出した彼について行く。
五年前の夏、記憶を失い、行き倒れていたところを拾われ、藤原泰衡に仕える郎党となった銀は、今でも過去の記憶を取り戻した様子も見せないまま、望美が出会った頃のまま、ここにいる。彼は心優しい青年で、時折こちらが気恥ずかしくなるような言葉を口走ることもあるが、今ではそれが銀らしさだと理解している。彼については、その過去や本当の正体について、出会った頃は知りたくてならないと思っていたが、今ではどうでもいいことのように思える。過去のことも大事だったが、今、望美にとって大事なことは、銀がそこにいて、自分たちとともに在るという事実だけだ。たとえ、彼が全てを思い出し、ここを去る日が来るのだとしても、それは今の話ではない。
(五年も経つんだなあ)
この地で過ごしてきたのは、四年半ほど。それ以前と合わせて、望美がこの世界で生きてきた時間は、既に五年を超えている。
生まれた世界ではないこの場所で、生きてきた。戦に身を投じたときもある、つまりは人を殺したこともある。けれど、望美は生きている。
「奥方様」
また、呼ばれた。無意識のうちに立ち止まってしまっていたらしい。
「ごめんね、銀。ちょっと、物思いに耽っちゃって」
「いえ。それよりも、こちらこそ急かせてしまい、申し訳ありません」
いつでも銀は、己が悪い、という様子を見せる。ううん、と望美は頭を左右に振った。
「悪いのは銀じゃなくって、泰衡さんでしょ。どうせ呼びつけるんだったら、朝にでも言っておいてくれたら良かったのに」
そうですね、と銀はどこか困ったような笑みを見せる。当然、主のことを悪く言われて、事実がどうあるにしても、そうですね、などと頷けるわけもないのだった。
のんびりしている場合ではないらしいので、とにかく少し足早に歩き出す。
「でも、何だか不思議だね」
「不思議にございますか?」
「私がここに来てから、そんなに時間が経っていないように思えたりするんだけど、でも、もう四年も経っているし。それに、思えば銀に神子様って呼ばれなくなってからも、三年以上経っちゃってるんだなあと思ったら、何だか不思議な気がしたの」
見知らぬ世界に流されてきて、もう五年が経った。辛いこと悲しいことが多くあって、どれほど涙を流したか知れない。いつかは生まれ育った世界に帰りたくて、必死だった。それなのに、望美はまだここにいる。いや、――生涯この世界で生きて行くと、決めた。
白龍の神子だったから、「神子様」と呼ばれていた。けれど、どこに生きるか、決意をした後に、望美は銀から、あるいは平泉に暮らす人々から、「奥方様」と呼ばれるようになった。
銀は穏やかに微笑んだ。
「縁にございますね」
一本の糸で、互いの生き様が繋がっている。そう思えるほどに、するりと互いの生きる道が交わった。今は同じ流れの上で、生きている。
生まれ育った世界の全てを捨てたように、望美はこの世界に生きている。好きになった人がいて、その人と生きていきたくて、だから元の世界を捨ててしまった。その代わり、手に入れたものがある。奥方様、そう呼ばれる立場を得た。つまりは、奥州藤原氏の当主として今、この奥州を治めていると言っても過言ではない地位の人の隣で生きる権利を手に入れた。
藤原泰衡を好きになった。だから、ここで彼と生きようと思った。そして、彼と生きる道を選んだ。――結婚をした。それが、もう三年も前のことだ。
そうだね、と応じたけれど、浮かべた笑みは少し歪んだかも知れない。
(縁、か……)
ただ縁が結ばれただけならば、素直に笑える。けれど、この生き方を選ぶまでに、望美は自分がしてきたことの大きさ、その重さを思うと、単純に笑うことができない。今こうしてここに生きているのは、運命を塗り替えてきたためのものだ。白龍の逆鱗をもって全ての悲しい出来事を、なかったことにしようと、愚かにも必死になり、ここまで走ってきたからであって、これは本来ならばあり得ない未来なのかも知れない、そう思う。
これは罪かも知れない。幾度となく、この世界にあって、そう思わずにいられず、罪の意識というものに苛まれてしまう夜があった。そんな後悔にも似た思いを抱くようになったのは、この三年の間のことだ。自分がここで、笑って生きている、泰衡と言う人の妻となり、平穏の中に生きるのだと、そう意識が傾いたとき、ふっと過去の己を思い、胸の痛むときがある。この時間は偽物だと、そう思えることがあった。
それでも、望美は生きている。きっとこの先も、この世界に生きる。故郷にある全てを捨てたこと、運命を変えてしまったこと、それらに苛まれても、ここで生きたい。愛した人の隣で、大切な人たちとともに、生きていたい。
「それにしても、突然呼びつけるなんて、何の用なんだろう? 銀は知っている?」
泰衡の妻となった望美の居所は、伽羅御所だ。もちろん、泰衡と一緒に暮らしている。
それなのに、突然、政庁である柳ノ御所に来るように、と銀が奥州藤原氏が当主の遣いとして伽羅御所にやって来たので、首を傾げてしまった。今朝も、夫とは顔を合わせたというのに、彼は何も言っていなかった。それが、いきなり昼を過ぎた頃に呼びつけられて、少々困惑している。今まで、泰衡が執務の最中に望美に用があると呼ぶことなど、一度としてなかった。
どうしたのだろうか。一抹の不安すら覚える。
「いえ、私は何も存じ上げないのです。申し訳ありません。……ただ、柳ノ御所には国衡様や佐藤様方がお集まりの様子でございました」
「国衡さんたちまで?」
どういうことだろうか。
国衡は泰衡の腹違いの兄であり、おそらくは泰衡が信用している人物の一人と言えた。また、佐藤と言うのはやはり泰衡の郎党で、こちらも長い間、奥州藤原氏に代々仕える一族でもあるから、当然信頼も厚い。
普段は、そうして彼の兄弟や郎党たちが集まることはないのだが――そも住まう場所が違う郎党も多い――、今は柳ノ御所に一堂に会していると言う。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜