さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
武士たちも、一人一人、以前とは意識が異なっているようだ。すぐにも戦になるかも知れない、そう思うからこそ、鍛錬も真剣そのものになる。どこか張り詰めたような空気さえ感じるようになった。各々の武の誉れを競うために励むのではなく、己の命や故郷を守るために一生懸命になっている。
そういったものを感じ取りながら、望美は焦燥感に近いものを抱いている。前の戦の際は、転戦を繰り返していて、戦うことが常に自分の身にも心にも、当たり前のように張り付いていた。けれど、三年間の平穏な時を過ごしているうちに、そんなものは心身から離れてしまっていた。それを、再び呼び覚まさなければならないと言うのか。気が滅入る。
未だに、鎌倉の動きは明らかになっていない。朝廷も未だに宣旨を下さない。頼朝はそれを望み、待っているはずだ。下されればすぐにでも、鎌倉を出立する準備を進めているのではないだろうか。泰衡が今、防塁を築き、武士の鍛錬を今まで以上に強化し、戦乱に備えているのと同じように。
平和になったから、この後はもう、泰衡とともに生きて行く、それしか考えていなかった。再び戦になろうとは、予想しなかった。
(でも、泰衡さんはちゃんと考えていたんだろうな)
阿津賀志山の防塁についても、すぐさまその方法を説いて見せたと、国衡から聞いた。以前から、そうせねばならないと考えていたに違いない。実行に移すには人も財も相当に必要となるため、急務として行わなかっただけで、今、必要となりすぐさま始めたのだろう。
幼い頃から、ああいう人だったと聞く。先を見据えて、己がどうすれば良いのか、何が最も必要なことなのか、そして不要なものは何か、考えてきたようだ。どれほどの困難も成し遂げる努力をいくらでも惜しまない人だが、同時に、不要を切り捨てる覚悟も相当なものだ。
(冷たい人だと思ったのは、そのせいかな)
切り捨てると決めたら、躊躇いもしない。常に要と不要を考えているから、その覚悟を抱くから、簡単に切ったように見える。
そういう人だから、割り切れない質の望美は、そういったこととは別の、何か大切なものを教えたかった。泰衡は、他人の心を必要としていない。己の感情すらどうでもいいと考えている。たぶん、命すらも同等だ。
「泰衡さんは、私なんて必要じゃないでしょう?」
こう訊ねたとき、泰衡もさすがに面食らったようだった。
婚儀の前日のことだ。場所は、伽羅御所の彼の居室。翌日の婚儀のために伽羅御所に泊まった望美が、夜になって泰衡の元を訪れたのだった。
彼は眉を寄せ、
「今さら何を仰る?」
不愉快そうに、訊き返してきた。答えないところが、卑怯だと感じた望美だったが、苛立ちを抑える。そも、泰衡が眉を顰めるようなことを口にしたのは望美の方だ。
「私と言うより、一人でも問題なく生きられるでしょう?」
「……それが、一体何だ?」
ますます不機嫌が助長される。しかし望美は怯まない。
「私がいてもいなくても、生きられるんでしょう?」
泰衡は、何も言わなかった。望美が、僅かに口元に笑みを見せているからなのか。そのため、彼女の意図が知れず、彼は戸惑っているのかも知れない。
きっちり床に座って、真正面から同じようにそこに座した人を、ひたと見つめ、望美はもう一度問う。
「泰衡さんは、孤独でも寂しくなくて、何の問題もなく、たった一人で生きていける人でしょう?」
これにも、泰衡は肯定も否定もする様子がない。ただ、望美がそうしているように、彼も彼女を見つめているだけだ。望美の真意を量ろうとしているらしいが、まだ理解まで到達していないように見受けられる。望美は一層に口元の笑みを深めた。
「泰衡さんには奥州って言う大事な場所があって、ここを守るためなら、いくらでも身を捧げられるんでしょう? ただ奥州のためだけに、一人でも生きていけるんでしょう?」
「……そうだな」
ようやく肯定した泰衡に、うん、と望美は満足げに相槌を返す。
「だからね、傍にいたいんです」
微笑みは鮮やかな花のように、満面に広がる。頬が僅かに熱くなったのは、照れ臭いからだ。泰衡は驚いたように、望美を見つめる。
「泰衡さんみたいな人は、一人でも生きていけるんだろうけど、でも、そういう人だから、誰かと一緒に生きていくこともできるって、知って欲しいなと思うんです」
孤独に苛まれて生きられない、そんな人ではないからこそ、孤独でない生き方を教えたい。
誰かと心を通い合わせて、こんな近くで、触れ合いながら生きられる。その幸福を、一緒に手に入れたい。
泰衡は、溜息のようなものを唇から零して、そうか、と言った。
「おかしな人だ、あなたは」
彼の口元に苦笑が覗いた。眼差しも柔らかい。嬉しくて、望美はもう一度、それまで幾度か口にしてきた気持ちを伝えた。あなたを好きですよ、と。
「心の底から、泰衡さんを好きですから。だから、一生傍にいますからね」
覚悟してください、と告げたら、分かった、とどこか苦味を持ったような顔をして見せたけれど、それでも泰衡は、望美を受け入れた。
己の命よりも、大事なものがある。それはきっと、妻である望美よりも優先されるものだ。彼の中では、そうなっているに違いない。
少しだけ悔しいけれど、仕方のないことだ。彼が他の何より、奥州を愛していることは、出会った頃から知っていた。好きになった理由も、彼のそういうところに要因がある。奥州より己を大事にしているのなら、好きにならなかったかも知れない。傍にいようとは思わなかっただろう。
青い空には僅かに薄い雲が見えている。爽やかな風に押し流される雲だ。あの雲のように、あるいは川を流れる水の上に落ちた葉の一枚のように、定まった運命に流されることを、厭い続けた頃がある。
時空を渡ること、過去や運命を変えること、歪んだ世界を正すためではなく、自分のためにそうしてきた。大切な人の命が、この掌から零れ落ちたことが辛かった、それで、全てを変える決意をした。悔いることすら許されるはずのない罪だろう。けれど、変えなければ、出会えなかった。こうして平泉に骨を埋めるつもりで生きていることもなかった。
「……運命」
何が正しくて誤っているのか、もう分からない。
この先、過去に歪めた運命の先、この未来にはどんな運命が待っているのか、それはもう分からない。そして、それがどんなものであったとしても、望美はもう、罪を犯してはならないということだけは、決まっていた。
――約束だ、と泰衡は言った。
今まで、幾度となく思い返しては、大丈夫、と過去の自分と泰衡に答えてきた。けれど、今は胸の奥が痛む。
(戦が起きてしまうのは、運命? 決まっていること?)
景時も止めたいと考えていた。泰衡とて、避けられるのならば避けたいと考えているはずだ。だが、もうこれは止められない事柄ではないかと、そんな気がしてしまう。いや、確信している。動き始めた歯車が、辺りの歯車をさらに動かしていく。初めの歯車は鎌倉にある。
「神子殿!」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜