さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
風の音を聞いていた望美の耳に、国衡の声がわっと飛び込んできた。驚いて閉じていた目を開けると、国衡が慌てた様子でこちらへ駆けて来ていた。望美も軽く走り、そちらへ向かう。
「そんなに慌てて、どうしたんですか?」
「大変です、神子殿。あなたを訪ねていらしたらしい!」
「私を訪ねて? 一体誰が……?」
「朔殿ですよ」
「――朔!?」
彼女は京にいるはずだ。それなのにどうしたのだろうか。
「今は伽羅御所にいらっしゃるとのこと」
「分かりました、すぐに戻ります!」
言うなり、望美はすぐさま駆け出した。
常の居所に着くと、自室へもばたばたと泰衡が見たら眉を顰めそうな勢いで、駆け込んだ。女房に案内されて、そこで待っていたのは、国衡の言ったとおり、かつてともに戦ってきた仲間、そして対の龍神の神子である彼女は、確かに梶原朔その人だ。
そこに背筋を伸ばし正座していた朔は、望美が部屋に飛び込むと振り返り、立ち上がった。望美は駆けて来た勢いのままで、朔に抱きつく。
「朔……!」
さすがに驚いた様子の朔だが、すぐに望美の背を抱きしめ返してくれる。やがて気持ちが落ち着いて、二人は体を離し、顔を見合わせる。
「久し振りね、望美」
「本当に。三年振りだもんね」
以前から朔はきれいで、一つしか齢は変わらぬのに落ち着いていたが、ますます大人びた。
「泰衡殿とは幸せにやっているようね。安心したわ」
「え、え、え? 何でそう思うの?」
再会してから数分程度で、何も語っていない。それなのに、どうしてそんなことが分かるのだろうか。朔は、分かるわ、と笑う。
「あなた、とてもきれいになったもの」
きれいな女性に、きれいになったと褒められると、何やら面映い。はにかむと、相手はますます嬉しそうに微笑んだ。
しかし、ただこうして再会が果たされたことを喜んでいるだけではいられないのだと、ふいに思い出す。望美は表情を引き締め、朔の両肩を押さえる。
「でも、朔、どうして平泉に?」
望美に会いにきてくれた、それが目的であるなら、もちろん嬉しいことだ。しかし、今は状況が良くない。いつ鎌倉との戦が始まるとも知れない時期だ。そも、寺から出ることはそうそうできないらしい、と景時は言っていた。それが、どうしたのだろうか。
朔も、途端に笑みを消し去り、憂うような表情に変わった。
「兄上から聞いて、居ても立ってもいられなくなったの」
「景時さんからって、一体何を聞いたの?」
「鎌倉殿が、奥州に再び戦をしかけようとしていることよ」
思わず、息を飲んだ。絶句する望美だが、朔はその瞳を見つめ、続ける。
「あなたが雨乞いの舞を披露したという話は、兄上から聞いたわ。雨を降らせたのですって?」
「あれは偶然だよ。白龍が聞いてくれたわけじゃない」
「そうかも知れないわね。でも、法皇様たちはそうは思っていないようだったとも」
心底信じるのではなくても、もしも万が一神罰が下ったらどうするのか、そんな不安に駆られているのではないか。ヒノエが言っていたのは、確かなことかも知れない。
「鎌倉殿は、馬や武具、それに兵糧を揃えているという話よ。法皇様からのお許しがあればすぐにも、……いえ、なくとも時機を見て攻め入ろうとしているようだと言うわ」
朔は至って真剣そのものの顔で、堅い声で語る。望美もこれまでもやもやと煙のように立ち上っていた不安が、確かな形を成してきたことを感じ始める。しかし、気掛かりは京にいた朔が、何故鎌倉の動きをそこまで知っているのかということだ。尼寺の中にあっては、世俗のことなど知るのはますます難しいだろうし、景時もそう易々と実の妹とは言え、内情を伝えると思えなかった。
「ねえ、どうして朔がそんなに鎌倉のことを知っているの? それに、危ないときなのにこうして来てくれるなんて……」
「兄上よ」
「景時さん?」
「兄上は、鎌倉殿の元を離れることを、決めたの」
「な、――嘘!」
朔は頭を振ってみせる。嘘ではないわ、と冷静に答える。
「いえ、正確に言うと、鎌倉殿が兄上を疑い始めているようなのよ」
「疑うって、景時さんが頼朝さんを裏切るとか、そういうこと?」
「ええ。京で、あなた、兄上と二人で会ったのでしょう?」
うん、と頷いてみたものの、思ってもみなかった展開に、戸惑うばかりだ。そう、朔に問われたとおり、京で二人きりで話したとき、景時は戦は止めたいと言っていたが、しかし頼朝を裏切るとは言わなかった。止めようとしてもやはり、戦がどうあっても起きてしまったら、そのときもやはり、景時は鎌倉方について戦うつもりだと話していた。
「だけど景時さんは、鎌倉について戦うと言っていたのに」
「あなたと、戦を止めると話していたのを、誰かが、聞いていたようだと、兄上は言っているわ」
「それが、裏切りだって言うの?」
主の意に沿わぬから、それを止めようとする者は、裏切り者だと言うのか。朔は苦しげに表情を歪めて、そのようね、と答えた。
誰も、彼の人を前にしては、己の願いは口にできなくなるのか。望む未来を手に入れたくて、平穏を愛する武士は、間違っているのだろうか。
「そ、それで、景時さんは?」
声が震える。朔は、大丈夫よ、と励ますように言う。
「兄上も、今頃はもう、鎌倉を出たはずよ。ただ、立場上どうしても平泉には来られないから、熊野のヒノエ殿を頼ることになっているの」
既に熊野には先触れを出しているという話だ。それなら、無事に熊野にさえ着いてしまえば、一時の安全は図られるだろう。ただし、それも鎌倉殿の目が完全に平泉に向いている間だけかも知れない。いずれ、彼の命は危うくなるのではないだろうか。
「本当に鎌倉と奥州が戦になっても、また奥州が勝つのならば、兄上も安全でいられるわ。だから、大丈夫よ」
「……そう、かな。そうだといいんだけど」
よもやそのようなことになっているとは、思いもしなかった。迂闊に京で、おかしな話をしてしまっただろうか。それが景時を窮地に追いやっているのだとしたら、心苦しいどころではない。
朔は望美の肩を抱き、大丈夫よ、と微笑んだ。
「あれでも兄上は、鎌倉殿に重用された武士なのよ。ちょっと情けないところもあるけれど、切り抜けるわ。それに、一人ではないのよ。他にも兄上と同じように賛同してくれる人もいるの。だから、安心して」
「うん、そうだね。今は信じなくちゃね」
妹である朔がこれだけ落ち着いているのだから、望美は逆に彼女を励ます立場であるべきだ。胸に手を当てて、深呼吸をする。やっと、焦燥感と不安が治まった。
「ねえ、でも、朔は平泉に来て良かったの? いつ戦が始まるか分からないし、今から京へ戻るとしても心配だよ」
「嫌ね、望美。私、京へは戻らないわよ」
さらりと笑顔で言われ、今度こそ本当に絶句する。目を見開いて朔を見つめると、彼女は微笑んだまま、
「奥州で戦が始まると言うなら、私もあなたの傍で戦いたいのよ。だから、ここに来たの」
当たり前のように、こう語る。
「だ、だけど、それ、景時さんも知っているの?」
「話してはいないけど、兄上なら、私がどうするか、お見通しじゃないかしら」
「お見通しって、そういう問題じゃないよ!」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜