さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
しかし、朔は否定するように頭を振って、いいのよ、と答えるのだ。
「私はあなたの力になりたいの。お願いだから、京へ帰れだなんて、言わないでちょうだい」
朔はとてもきれいで、とても強い女性だ。女らしさを失わないのに、下手をすれば男性よりもずっと逞しいのではないかと思わされることがある。これは、押しに負けるしかないらしい。
「……ありがとう、朔」
事実、彼女が傍にいてくれるというのは、とても心強いことだ。
「でも泰衡さんが帰ってきたら、何言うか分からないな」
しかしふと思い立って、望美が苦笑いでこう言うと、朔もちょっと眉を寄せた。それもそうね、と言いながら、しかしさらに付け足す。
「だけど、私は泰衡殿の妻ではないのだもの。何を言われても、私の意志を通すわ」
やはり、彼女は強い。
今は未来の不安を忘れ、朔との再会のひと時を、思い出話や、別れてから今までのことを互いに語り合い楽しんだ。やはり夕暮れになっても戻らぬ泰衡の代わりのように、朔がともに夕餉を取ってくれた。
しかし、夜が更けても、夫は帰館していない。こういったことはよくある。遠出していようがいまいが、泰衡の場合、柳ノ御所での執務も、これほど遅くなることが多々あるのだ。だが、今日は本当に戻らない可能性も高い。多賀城からさらに南下はしないだろうと国衡は言っていたが、望美は疑わしく思っている。
(これは、ただの甘えかな)
京に赴いたときと同じように、隣り合って眠りたいと望む。触れようと思えば、すぐにそれが叶うほど傍に在りたい。戦になるかも知れない、そう聞かされたときから、離れるという不安がいや増している気がする。
戦はまだ始まっていない。だから、突然、互いの距離を引き裂かれてしまうことはない。けれど、寂寥感だけでは足らず、今はひたすらに不安なのだ。
(大丈夫。戦が始まっても、私たちは一緒にいられるんだから)
幸いと言うべきか、望美は剣を扱う女武者なのだ。屋敷の奥で静かに暮らすだけの、武家の普通の妻とは違う。望美もまた、武士の一人だ。夫とともに肩を並べて戦うことができる。だから、望美は愛する人を自分の手で守ることもできる。
(泰衡さんは、女に守られたくないって言いそうだけどね)
夫を思い、一人寝の褥の中、今夜やっと少し笑うことができた。
ふと、人の気配に気づく。静かにこちらへ近づいてくる足音、それは泰衡のものだと、すぐに分かる。帳台に下がる帳を払い、泰衡が入ってきた。望美は半身で起き上がる。
「起きていたのか?」
「ううん、眠ろうとしてたんだけど、寝つけなくて」
敢えて起きていたのではない、と主張しておく。そうでないと、さっさと眠っていればいいものを、などと厭味を言われ兼ねない。
そうか、と短く答えた泰衡は、すぐに夜着に着替えると、望美の隣に体を横たえる。挨拶の一つもなく眠ろうとする人に、少々むっとする。
「ちょっと、泰衡さん」
「何だ?」
応じる声は鬱陶しそうだ。
「もうちょっと、何かあるんじゃないですか?」
「特にあなたに語るほどのことはないが」
「それなら、私にはちょっと話しておきたいことがあるんですけど!」
全く勝手な人だ。起きて帰宅を待ち侘びていたというわけではないが、それにしても、起きていた妻に何か訊ねるなりしてもいい。閉じていた目を開けて、溜息がてらにこちらを見る泰衡だ。
「実は今日、朔が京から来て……」
「その話ならば、郎党がわざわざ多賀城まで報せに来た。ここに滞在させるのだろう?」
「はい。でも、それだけじゃなくて、景時さんが」
「それも既に鎌倉を探らせている者から報告を受けている」
「え、――知ってたんですか?」
景時が鎌倉を出奔したことなど、既に泰衡の耳には入っていたと言うのか。目を丸くする妻に、ああ、と泰衡の返答は簡略で素っ気ない。
「昨日聞いたばかりだがな」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「わざわざ聞かせるまでもないと思ったからだ」
「そんな……。だって、景時さんは私の八葉で、大切な人なのに」
泰衡は、この僅かの時間にも幾度目か知れない溜息をつく。
「知ったところで、我々には、どうすることもできまい」
「だけど、教えて欲しかったです」
泰衡の眉間に皺が刻まれる。いよいよ彼の苛立ちは深まってきたらしい。けれど、望美としてもこれは引くわけに行かない。望美にとって景時が、あるいは他の八葉たちも含め、彼らをどう思っているのか、どんな存在なのか、泰衡は承知しているはずだ。力になれずとも、彼らの状況を知っているなら教えて欲しいと思うのは当然だろう。
「知れば、それだけ不安になるのだろう?」
不意にこう問われ、目を瞬く。外から僅かに入り込んだ月明かりだけでは、何も見通せない。泰衡の心の奥は見えないが、彼は眉を顰めながらも、じっと望美を睨むでもなく見つめている。
「仲間が危ういと知れば、不安に駆られ、居ても立ってもいられなくなる。救う術もなく、ただ不安を募らせて過ごす」
確かに、そのとおりだ。朔が大丈夫だと何度も言って聞かせてくれなければ、望美は今以上に思い悩んでいたに違いない。顔を隠すように俯くしかなかった。泰衡には、すっかりお見通しなのだ。
「余計な不安に苛まれても、仕方ない」
「……でも」
教えて欲しかった。不安に押し潰されてしまうのだとしても、知りたかった。そう口にしようとしたが、続けられずに噤んだ。
望美がそれを知ることで、不安に駆られ焦燥感を抱くだけならば、知らせない方がいい。泰衡は、そう判断したのだ。知れば不安になる、それならば知らぬ方がいい、泰衡のこの考えは、つまり、望美のためのものだ。望美が苦しまぬために、そうしてくれた。気づけば、文句など言えなくなる。
「ううん、ごめんなさい。……ありがとうございます」
素直に笑えないと思ったが、彼のそういう気遣い、優しさに、自然と口元に小さな笑みを宿した。泰衡も安堵した様子で、ではもう寝るぞ、と勝手に目を閉じてしまう。
こちらも素直に応じようと思ったが、物足りない。枕を脇へ追いやり、望美はそっと泰衡に近寄った。
「またなのか……」
呆れたような声が落ちてくる。彼の胸に入り込んだ望美は、はい、と弾む声で応じる。
今宵もまた、この温もりに包まれて、眠る。戦が始まってしまえば、しばらく得られないものだ。
***
それからの一月ほども、朝廷には何の動きも見られなかった。鎌倉は未だに宣旨を受けていない。ただし、武器などを集めている様子に変わりはないとのことで、臨戦の準備はこちらも着々と進めねばならぬ状態が続いているのは確かと言えた。
さらに奥州も、阿津賀志山の防塁を、完成させていた。多賀城周辺の守りを、これまで以上に堅固とすることも進められ、泰衡は奥州の方々に遣いを送り、戦になった際の助力を求めることに尽力しているところだ。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜