さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
また、鎌倉を出た景時が、無事に熊野へ逃れたことも、熊野の烏がわざわざ平泉まで来て知らせてくれた。朔と一緒に、安堵したものだ。その後も特に鎌倉から景時を処断するため、追っ手があるということもないようだ。それが余計に恐ろしいように感じるのだが、今は無事でいるという事実に心を委ねておきたいところだった。
七月ともなれば、奥州にも本格的に夏が到来し、秋に向けて変動していく頃だ。しかし、まだ暑い日も続く。京ほどではないにしても、この地もまだ暑い。戦に向けて、鍛錬を続ける武士たちが汗をかくのも早く、望美もそれに付き合うついでに、朔に手伝ってもらいながら、冷たい水を入れた水筒を持って、彼らを労うなどして過ごしていた。
泰衡は以前にも増して忙しない日々を送っていて、このところ、まともに帰館しない夜も多くなった。
いっそのことすぐにでも攻められた方が増しだ、というのは、泰衡が先日、苦々しげに呟いていた言葉だ。いつ来るのか、どうなるのか、分からぬ状態で焦燥感を募らせて、苛立つよりは、さっさと来てくれた方がいいと思ってしまうのは、もちろん、歓迎したくないのは山々だが、道理ではある。
しかし、院宣は下っていない。そして、下さないとも決断されていない。鎌倉が未だに戦へ向けての準備を進めているようにしか見えぬのは、朝廷の意思が決まっていないためだろう。
お陰で、望美の溜息の数も、知らぬ間に増えている。
「またか」
泰衡がそれだけを、望美に向かって言うので、訳が分からず首を傾げる。珍しく夕餉の頃合に帰ってきて、ともに食事をしている最中のことだった。
「何が、またなんですか?」
「溜息だ」
「……私?」
「ああ」
すいません、と思わず口元を押さえて謝るものの、泰衡の眉間に刻まれた皺は消えなかった。泰衡は望美を見つめる。
「憂鬱か?」
こう訊ねられて、すぐさま肯定するなど、なかなかできない。しかし、否定したところでそれが偽りだと見抜かれるのは必至だ、望美は躊躇いがちに首を縦に振った。
そうか、と答えた泰衡こそ、溜息をつきたがっているような声をしている。
「やっぱり、戦は嫌いだもの」
「好む人間も、そうそういないだろうがな」
「でも、そうしなければいられない人もいるでしょう?」
たとえ戦を厭う質でも、目的のため、目指す何かのためには、その道を選ばなければならないと考える人間は、思っている以上に多いことだろう。おそらく、今目の前でともに食事をする人も、そういう考えの持ち主だ。
避けたいことでも、目的のためには手段を選ばない。必要であれば、どんなものも切り捨てられる。感情のために周りが見えなくなることはないが、その代わり、理想のためには己の命でも差し出してしまいそうだ。
(いつも怖いと思うのは、そこなんだよね)
戦でなくとも、とにかくもともと故郷のために尽力し過ぎる人だから、そのうち体を壊してしまうのではないかと、心配している。今は特に、戦の準備に忙しすぎて、彼は己のことなど少しも顧みないのだ。その分、望美や郎党たちがよく彼に気をつけねばならない。実は、かなり厄介な夫だ。
泰衡は、望美の言葉を受けて、静かに頷き、食事を続けた。
ちゃんとご飯を食べてる、と思うと、今は少し安心する。
「もし、戦が始まってしまったら」
泰衡が望美に再び視線を投げてくる。
「泰衡さん、ちゃんと自分の体のことも気をつけてくださいね。何だか、自分の命なんか関係なく戦ってしまいそうで、怖いから」
妻としての本音を聞かせると、泰衡はしばし黙ったまま望美を見ていたが、
「できる限りは」
と答えた。しかし、望美としてはそれだけの返答では全く足りないと感じる。
「ちゃんと、自分の命も守ってください! そりゃあ、戦が始まっても私は泰衡さんの傍で、ちゃんと守ってあげますけどね」
けれど望美がもしも、僅かでも泰衡の傍を離れている間に、泰衡に危険が迫ったなら、どうにもならない。彼を守る人間は望美だけではないが、いざ戦となればどうなるか知れないものだ。己の力で自身を守る、これが最も理想的なのだから。このところは、泰衡もよく刀を手にして、鍛錬をしているそうだ。その姿を、望美は見たことがないのだが、銀がそう話していた。軍を指揮する能力に長けるだけでは、やはり不足が多いだろう。
今度は、泰衡の方が息をついたようだ。彼は食事を終え、箸を膳の上に置いた。
「そのことだが、話がある」
「何ですか?」
改めて切り出されると、何故か緊張する。良くないことを切り出されるような気がしてしまうからなのか。そも、泰衡の言うそのこととは、何を指すのか分からず、首を傾げる。
「今回の戦は、あなたを」
だが、言葉はそれ以上紡がれなかった。ちょうど、部屋の外が騒がしいことに気づいたからだ。泰衡も望美も、揃って庭を振り返る。
慌てたように乱暴な足取りで、こちらに飛び込むようにやって来たのは、忠衡だった。望美にとっては、今まで数えるほどしか顔を合わせたことのない相手だが、阿津賀志山に防塁が築かれた直後に、報告に上がった彼と対面したばかりだった。その中で、国衡や泰衡に比べればまだ小柄な忠衡は、非常に礼儀正しい少年という印象を持っていたのだが、今は不躾も構わず、夫婦が揃う居室に、慌てて入ってきた。その手前で、失礼いたします、と叫ぶように断りを入れたものの、泰衡の返答は待たなかった。
「どうした、忠衡?」
彼らしくない振る舞いに、さすがに泰衡も眉を顰める。怒っているわけではない、忠衡が礼を失するほどのことが何か起きたのだということが気にかかるのだ。それは、望美も同様だ。
「鎌倉に動きありとの報せが届きましてございます!」
ここまで大急ぎで駆けて来たのだろう。滲む汗が滴りそうなほどだ。
「動きと言うと?」
「鎌倉殿は、軍勢を集め、今日明日中にも鎌倉を立つようであるとのこと」
望美は驚愕し、息を飲んだが、泰衡は非常に落ち着いている。
「朝廷の方はどうだ?」
「京には表立った動きはないとのこと。未だに、院宣など下っていないようです」
「……強行するつもりか」
なるほど、と呟く泰衡の口元に、笑みが浮かんだ。そして、彼は忠衡の肩の向こうに見える、薄暗がりを睨む。
とうとう、始まってしまう。止められなかった戦が、押し寄せるのだ。
「忠衡、すぐに柳ノ御所に、郎党たちを集めろ」
「畏まりました」
ようやく落ち着いてきた様子の忠衡は、失礼いたしますと、望美を見ながら丁寧に頭を下げると、また大急ぎで去って行った。
泰衡は、黙ったままそれを見送り、しばし庭を見やる。望美も同じように言葉もなく、こちらを見ない夫のことを、ひたと見つめる。こうなれば、泰衡は逃げも隠れもしないだろう。戦うことだけに、思考を巡らせる。
この世界に流されてきたときから、一年以上戦い続けた。源氏の神子だ、戦女神だと、祭り上げられたこともあった。けれど、後の四年間は平穏に暮らしてきた。剣術の稽古に励んでも、趣味のようなものだった。実戦のためのものではなかった。けれど、もうそうは言っていられない。
ふと、彼の視線がこちらへと流れてきた。
「戦は嫌いだと仰ったな」
「好きになんかなれません」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜