さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
「そうだろうな」
どんな意図があるのか、訊ねてくる。何が知りたいのだろうか。聞かずとも分かりきった答えを求め、どうしたいのだろうか。彼の真意が見えない。
しかし、泰衡はそれ以上何を言うでもなく、望美の困惑したままの表情を見つめる。
「泰衡さん?」
問いかけるように、彼を呼ぶ。ああ、と短い声だけが返って来たものの、泰衡は言葉もないまま、やはり黙ったままだ。無口とまでは言わないが、あまり余計なことを語らない質の人だ――厭味などは別として――。しかしそれにしても、ただこうして見つめるだけということも滅多にないことだった。普段ならば、照れ臭いと感じるところだろうが、今は戸惑うばかりだ。
すると、ふいに手招きされる。首を傾げながら、望美は素直に彼の傍らまで寄った。
「何ですか?」
訊ねるものの、泰衡は何も言わぬまま、その指先で、望美の肩から零れ落ちている髪の一筋を手に取る。その手触りを味わうように、指先で弄くり、その髪質を検めるように眺めている。
泰衡らしくない行動に、惑う気持ちばかりが大きくなる。声をかけづらくなってきた。
「随分と伸びたな」
けれど、突然彼らしくもないことを言う。これも、今まで話していた内容とはまるで違うことで、一瞬、返答もできなかった。
確かに望美の髪は、かなり長くなった。都に暮らす深窓の姫君とまでは行かないだろうが、昔から長かったその髪は、度々切り揃えながら、ゆっくりと彼女の足下近くにまで到達した。剣の鍛錬のときは、頭の上に束ねるのが常となっている。
「……ねえ、どうかしたんですか?」
「いや。ただ、それだけ時が過ぎたのかと思っただけだ」
髪が伸びるだけの時間、それだけの年月が過ぎた。泰衡は戦に勝利し、やがて望美と言う妻を娶り、平穏のうちにさらに故郷の発展に力を尽くしてきた。望美は、泰衡の傍で、それを見てきた。励ますこともできなかったし、力になれたとも思えないが、少なくとも、彼の傍にいたいと願った理由を、そのままに体現してきたとは思う。傍に誰かがいる、そのときどんな気持ちを抱くものか、知って欲しい。それだけは、理解してくれているのではないだろうか。
するりと、彼の手から髪の一房は解放され、望美の膝に落ちた。
「今日は、御所を出ずに待っていろ」
そう命ずるように言われ、目を瞬く。
これまで、泰衡に屋敷の奥で大人しくしていろと言われたことは、数知れない。だが、それは喧嘩をしているときなどのことで、唐突にこう言われたことはなかった。泰衡は、望美が深窓の姫君よろしく、静かに過ごすような女だと思ってはいない。外に出て過ごすことを、大層好む質だと知っている。だから、無理に御所の奥のみで暮らせなどと言わなかった。望美の気質を理解してくれていた。それが、一体どうしたことだろう。
「どうして?」
「鎌倉が動いたとなれば、どこで何が起きるか知れぬだろう。万が一でも、鎌倉の間諜などに襲われることがあってはならないときだ」
「でも、そんなのは今までだって、状況は変わらなかったのに」
「今だからこそ、用心するべきだ」
泰衡は強引に言い切ってしまうと、ふいに立ち上がる。
「行ってくる」
一言だけ口にして、部屋を出て行ってしまう。望美が呼び止めても、足を止めてくれそうな雰囲気ではない。
背中が遠ざかり、壁の向こうに見えなくなってから、思わず溜息を吐き出す。
「どうしたんだろう?」
もう一度、呟く。誰もいない部屋では、返答など当然ないけれど、それにしても今の泰衡は妙だった。彼らしくない。
見送った背中は、もう見えない。
源氏は遂に、兵を率いて鎌倉を出立した。泰衡は郎党たちを集めて、今後のことをすぐさま決めるのだろう。戦という火蓋は切って落とされる。阿津賀志山の防塁は築き上げられている。奥州武士たちは皆、このときのために鍛錬を積んだ。それは、四年前の戦の折から、少しずつ進められてきたことでもある。
平穏は永遠ではない。それでも、これほど早くに再び、戦火が迫ろうとは、ずっと思っていなかった。けれど、泰衡はこのときのことを考えていたに違いないのだ。彼がこれから、郎党たちと話すことのほとんどは、以前からこの状況を想定し、導き出した事柄だろう。如何にして戦えば、再びの勝利が得られるのか。
望美もまた、夫と同じように、腹を据えなければならない。彼の隣に並び立ち、ともに戦うために。恐れず、彼と同じ道を歩むために。
食事を終えて自室に引き上げて一息つくと、
「奥方様」
声をかけ、入ってきたのは銀だ。
「どうしたの、銀? 泰衡さんはとっくに柳ノ御所へ向かったけど」
「はい、存じ上げております。私は、本日は奥方様についているよう、泰衡様に命じられて参ったのです」
御所を出るなという命令を守るか否か、どうやら疑われているらしい。そこで、こうして銀を遣わしたのか。
「信用ないなあ」
「そのようなことはございません。奥方様を大切にお思いになるがゆえでございますよ」
銀の言うことならば、信じたいのも山々だが、泰衡の妻としてはそれを信じ難く思ってしまう。
「別に、銀が一緒にいてくれることに文句なんてないけど。でも、大丈夫なの?」
「私でしたら、何の問題もございません」
「だけど、すぐに戦になるんでしょう? だから泰衡さんは郎党を柳ノ御所に集めるようにって、忠衡さんに言ってたんだもの。銀は、行かなくていいの?」
「泰衡様がこちらで奥方様と時を過ごすようお命じになったのですから、ご心配には及びません」
そう、と相槌のように返そうとしたが、何故かとても引っかかる。
銀は泰衡の郎党の中では、確かに新参の方だ。けれど、銀は泰衡の最も傍に控えた郎党と言えるほどになっている。こうして、己の妻の様子まで探らせるほどには、泰衡と近しい間柄なのだ。当然、戦ともなれば、銀もその力を、誰より存分に発揮するところを任されるだろう。以前の戦でも、銀の将たる姿勢は、昔から奥州に暮らす郎党たちも唸らせるものだった。
(それなのに、銀はここにいてもいいの?)
本来であれば、彼も軍議に参加しているべきだ。それなのに、泰衡が敢えて彼を、望美の見張りなどのために寄越すなど、おかしい。
眉を顰め、考え込み、押し黙る望美の顔を、銀は心配そうに覗き込む。
「奥方様、お加減でもお悪いのでしょうか?」
「え、ううん、大丈夫だよ」
戦が今にも始まることを思えば、気分が晴れることなどないが、緊張で心臓が強く打つ他に、体調が悪いと感じることはない。
そして、ただおかしいと思う。今は、泰衡が銀を望美の元に遣わすようなときではないのではないだろうか。それほど、泰衡は望美が外に出ることを厭っているのだろうか。
(何か、変だ)
眉を顰める。銀がそれに気づき、奥方様、と呼びかけてくる。
柳ノ御所では軍議が開かれているところだろう。鎌倉がどう仕掛けてくるか、これにどう対応するか、どう戦うのか、話しているのだろう。総大将は泰衡で、その下にそれぞれ部隊を率いるに相応しい将を選んでいるだろう。そして、誰がどこに向かうべきか、話し合われるはずだ。
(私は泰衡さんの傍で戦うとしても、銀はどうなんだろう?)
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜