さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
泰衡は、滅多なことでは、妻の真名を呼ばない。時に優しい声音で呼んでくれることもあった。その名で呼ばれるとき、望美は自身の名に喜びすら覚える。けれど、今は違う。叱責する色の声が自分を厳しく呼んだ。
涙が滲んできた。
「話したじゃない。嫌なの。大事な人が、知らないところで、苦しむのも、傷つくのも、死んでしまうのも」
「ああ、聞いたな」
「傍にいたいの。離れるのは嫌なの。……怖い」
過去を思うだけで、肩が震えた。
力がなかった。神子としての力も、武者としての力もなかった。仲間たちは、望美のために皆、命を落とした。白龍は望美が帰れるようにと、逆鱗を渡して消えた。炎の中から雨の降る故郷へ帰ると、全てが夢のようだと思ったが、たった一人で佇んでいる時間が、辛かった。逆鱗のきらめきを見て、もう一度この世界に戻ってきた。時空を戻った。全てを変えてしまおうとしたのだ。哀しみを、受け入れられなかった。
その全てを泰衡に語ったのは、婚姻したその夜だった。何も言わず、泰衡は全てを聞いた。そして、責めるでもなく、一つの約束をさせた。これだけは決して破ってはならないと、きつく念を押され、望美はそれを真摯に受け止めた。
――約束だ、と泰衡は言った。
だから、それは今もずっと守り続けている。けれどそれは、泰衡がここにいるからだ。傍にいるからだ。
泰衡は何も言わず、望美を見つめる。望美が黙って受け入れることを待っている。けれど、頷けるわけがない。
「絶対に嫌!」
言葉を投げつけて、踵を返し、大社の階段を駆け下る。
彼と一緒になったのは、傍にいようと思ったからだ。傍にいることで、得られるものがある。一人で生きられるとしても、誰かと生きる喜びを知ってもらいたかった。それを、分かち合いたかった。
傍にいることに意味があると思ってきた。泰衡は一人でいるほどに、自身のことを顧みなくなる。彼が倒れることがあれば心が痛む。憂えることがあればともに悲しむ。それらを、傍にいて、ちゃんと分からせたい。彼自身、その人がどれほど望美にとって大事な存在なのか。
しかし、半ばも下りる前に、背後から腕を掴まれる。抵抗しようにも、もう片腕も取られては、できなかった。
彼女の両手首をきつく握りながら、泰衡は正面から彼女を引き寄せ、間近に望美の顔を覗いた。睨むように鋭い瞳をしていて、彼と夫婦となってからは初めて、彼を怖いと思った。
けれど、ここで退いてしまってはこの願いは叶わない。傍にいたいと、愛しい人を守りたいという想いが。
「知ってるのに、どうして分かってくれないの? 傍にいて、守りたいの。一人で行かないで欲しいの」
軍に従いたいのではなく、ただ望美は、泰衡とともに在りたい。これはわがままだ、独り善がりだ。けれど、彼が何より大切に思う故郷を、ともに守りたいという心に偽りはない。
泰衡の眉間の皺は、彼女の言葉を聞いて、さらに深く刻まれてしまう。
「理解しろと、仰るか」
「そうです。私は、泰衡さんを一人で戦わせたくない」
国衡は泰衡を理解してくれる数少ない人間の一人だが、彼も泰衡の元を離れて戦うことになっている。銀は泰衡の傍にいてくれるだろうが、彼の場合は最終的に、泰衡の意に沿わぬことはできない。今日のようなことがないとも限らないが、もしも泰衡が、心から希うことならば、銀はそれがどれほど辛いことでも、受け入れざるを得ないだろう。しかし、望美は違う。彼の妻として、彼が無茶をすることがあれば、それを止めることもできる。逆らうことを泰衡は良しとしないだろうが、反論するだけの意志は持てる。
だが、泰衡は折れる様子など見せはしない。
「……あなたは、ことあるごとに理解しろと仰る」
「だって、泰衡さんが分かってくれないから」
「それならば、あなたはこちらの考えを、気持ちを、理解していると言えるのか?」
苦々しく吐き出された言葉に、望美は口を噤んだ。
泰衡が何を考え、何を思うか、理解しているのか。こう問われて初めて、思い至る。喧嘩をする度に、望美は泰衡に、自分のことを分かってくれないと、よく文句を言ったものだった。婚姻の前にも、下らない喧嘩をして、責め立てた。そう、いつかともに渡島――蝦夷島――へ行きたいと話したときのことだった。
言い争い、屋敷を飛び出した望美は、崖を真っ逆様に落ちてしまった。命に関わるほど大きな怪我はなく、幸いにして人にもすぐに見つけてもらえたため、無事にこうして生きているものの、あのときも望美は泰衡が自分を理解していないと怒鳴ったものだった。そのとき、泰衡も同じように、あなたも俺を理解していない、と言っていた。その頃の泰衡は、大事なことなど全く語ってくれなかったため、理解して欲しいなら話して欲しいと願った。
それから、三年以上が過ぎた。泰衡は今また、あのときよりも辛辣に、理解していない、と望美を責めている。
「あなたのように全て語らねば何も理解されぬか? 聞かねば何も受け入れられぬと?」
答えられない。泰衡のことは、彼が何も語らなくても、ある程度は理解できる。それほどの仲になれたと思い込んでいたのは、自分だけだろうか。彼は未だに、望美は自分を理解しないと思ってきたのだろうか。それならば、望美の考えは勘違いも甚だしいものだ。愚かな自分が恥ずかしくなる。
泣くようなときではないのに、涙が再び瞳の面に押し寄せてくる。
「傍にいたらいけないの? 守るために戦ってはいけないの? 私は邪魔なの?」
妻として傍にいる、彼を守る者として傍に在る、どちらも自分ならばできることだと思っていた。思い込んでいた。
掴まれたままの手首が痛い。
違う、と泰衡は短く答え、望美は彼の言葉が偽りではないかとその顔を見上げた。
「己の妻が戦場に立ち、傷を負うことを厭わぬ男がいるとお思いか?」
再び、言葉も出なくなった。
「木曾殿は愛妾を伴い戦に赴いたと言う。鎌倉殿も同じくして、異国の神が憑いていたとは言え妻を戦場に送った。どちらも俺には理解し難いことだ」
泰衡は目を逸らさずに語る。望美もまた、逸らせなかった。逸らしたくなかった。
無口ではないのに、いつも肝心なその胸の内を語らない泰衡が、望美をそうして見つめながら、その心を明かしているのだろうか。
「己のために妻が死ぬことが、辛くない人間がいるとお思いか?」
戦では何が起こるかは分からない。望美は泰衡を守り、死ぬつもりなど毛頭ないが、万が一にも何か起きてしまう可能性が皆無だとは誰にも言えない。
妻が死ぬこと――望美が死んでしまうことがあれば辛い、と彼は言ってくれたのだった。
ゆっくりと、泰衡が手首を解放する。まるで拒絶されたような心地になるのは何故なのだろう。
望美は僅かに俯いた。離れたくない、ともに在りたい、傍にいたい、守りたいと、強く希う。けれど、泰衡も同じように、望美が傷つくこと、死んでしまうことを恐れ、そうならぬことを願っている。だから、戦場から遠ざける気でいるのだ。
知らなかった。彼の言うとおり、彼の心の内、その想いを知らなかった。
「……約束、してください」
望美はようやく、搾り出すように口にした。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜