さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
腰を低く落とし、しゃがむようにして、子どもたちと同じ目線の高さで、そっと応える。
「さみしいの?」
「ないちゃうの?」
「かなしい?」
「寂しいけど、泣きたいこともあるけど、悲しくはないよ」
一番年下らしい少女が、小さな掌で、望美の頬に触れた。なかないで、とそっと言う。それだけで、泣きたくなってしまうので、少し困った。けれど、大丈夫だよ、ともう一度語る。
「みんなが優しいから、大丈夫」
子どもたちも、そしてその家族も、望美を心配してくれているのだろうか。この平泉に暮らす人の口の端に上る自分は、彼らの中で、そうして心を寄せてくれるようなものとなっているのだろうか。夫が戦に向かい、残された妻。他にもたくさんいるだろうに、彼らは望美を心配してくれるのだろうか。泰衡が心から愛している故郷、その人たちに、自分も大事に思われているのかも知れない。
「ありがとう」
心からの微笑みを見せた。
やっと童たちも安心したようで、それじゃあ気をつけてね、などとこれもまたそれぞれがめいめいに口にしながら、駆け去って行く。
「泰衡殿がいなくても、あんなにたくさん、あなたを思ってくれる人がいるのね」
朔も望美に倣い、去って行く子どもたちの影をその目で追う。そうなの、とまた素直に笑うことができた。
望美のように、夫の帰りをひたすら待たねばならない妻はどれほどいるだろうか。そういった人たちの代表としても、望美はここに在る。剣を振るうのではなく、こうして待つことで心が強くなればいい。夫を待つ自分もまた、戦っている。誰も彼もが、同じことだ。ともに戦う、それはこういう形でもあるのだろうか。武器を手にしなくても、こうしているだけでも、戦うことになるのだろうか。
「……少しは、私のことを思い出してくれていればいいんだけどな」
けれど泰衡は、己が率いなければならない人々のことで、頭がいっぱいになっているはずだ。そういう人なのだ。己と言う存在だけ、その狭い周りの人間のことを思い浮かべるよりも、今、成さなければならぬことの方が大事だと考える人だ。
「思い出してくれるわよ」
朔が慰めるように言ってくれるので、望美はまた笑った。
もしも思い出してくれなくても、彼の心に、自分は確かに存している、それだけは知っている。だから、不満に思うことはない。
行こう、と朔を促して、川湊へ向かった。
***
泰衡へ文を送ったのは、七月も終わりかけた日のことだ。夕刻には秋の風も吹いている。
望美の書く文字は、蝸牛がのろのろと這ったような跡にしか見えず、非常に読み難い。こういう評価を下したのは、やはり泰衡だった。手習いのついでに、泰衡に試しに送った文に、文句をつけられたことは多々ある。朔は、読めるから大丈夫よ、と笑ってくれたのだが、ここは夫の言葉の方が正しいような気がした。
特に、どんな用があるわけでもない。ただ、息災であるかどうか、体調には気をつけているか、そういうことを訊ねたかったのだ。彼は、一人でいると、己の体など顧みないので、心配なのだ。戦で命を落とすより、それ以前に過労で倒れてもおかしくないほど、働き詰めてしまうような男なのだから、誰かが気にかけておかなければならない。
そんな文を受け取れば、彼の眉は顰められてしまうだろうが、これも離れた妻の務めだ。
文は、多賀城からやって来た伝令の武者に授けた。泰衡が望美のために伝令を出しているわけではなく、政庁たる柳ノ御所に詰める、残った武士たちに対して現状を知らせるために、三日に一度寄越されるようになっていた。それを、私用に使うなど、泰衡にそれこそ叱られそうだったが、他に連絡の手段もない。伝令にやって来た武者も、快く引き受けてくれたものだ。
高衡に打診しておいたので、伝令は望美が伽羅御所から、文を持ってやってくるのをしばし待っていてくれた。
「それじゃあ、これなんだけど、……よろしくお願いね、河田さん」
かしこまりました、と望美の手から一通の文を、相手は丁寧に受け取る。それでは、と去ろうとする背中に、あ、と思わず呼び止めるような声を上げてしまう。その武者は、戸惑ったように、何でございましょうか、と振り返った。
「あの、それ、私がただ泰衡さんに渡して欲しいだけの文なの。だから、もしも泰衡さんに叱られたりしたら、ごめんなさい」
こんな文を何故受け取ってきたのか、などと望美がその場にいない分、叱責を受ける可能性も皆無とは言えない。いえいえ、と武者――先程高衡に河田殿と呼ばれていた――は、明るく笑った。
「愛しき妻の文を受けて、叱責する男などおりますまい」
「そうだといいんだけど」
「ご安心ください。こちらは確かに今御館にお渡しいたします。もし、必要とあれば、返し文も受け取って、直に奥方様にお届けいたしますゆえ」
「ありがとう」
それでは、と若い武者は爽やかに馬に跨り、走り去って行った。泰衡を見送るような心地で、彼への文を手にした人の姿が見えなくなるまで、柳ノ御所の門前に佇んだ。
河田の言うように、泰衡が望美に返事をくれるとは思えなかったが――そのような暇はないだろうし――、僅かばかり期待したくなった。
***
八月になった。いよいよ鎌倉の軍勢の影が迫ってきている、と間諜から知らされたと、多賀城から柳ノ御所の高衡の元に、泰衡からの文が届いたと言う。その文が届いた夕に、すぐさま高衡が伽羅御所に来て、知らせてくれた。
そのとき、高衡とともに、また伝令としてやってきた河田も、望美の元を訪れた。
「今御館への文は、しかとお届けいたしました」
「そう、ありがとう」
わざわざその報告に来てくれたのかと思えば、そうではないらしい。高衡の苦笑するように目配せを受け、河田は一歩、二歩と、上座の望美に近づいてきて、袖から折り畳んだ布など取り出してみせる。
「今御館は、文を書く余裕もないとのことで、こちらだけを」
そっと、布を手渡してくる。素直に受け取り、掌に載せてみるものの、何だか分からない。ただの手拭いにしか見えない。
よく見ると、ただ折り畳んであるわけではなく、丁寧に何かを包んであるような形だ。そろそろと、開いていく。全て開くと、そこには白い鳥の羽根が一枚、挟まれていた。
「これ……?」
「たまたま多賀城の庭に舞い降りた白き鳥が、落として行ったとのことで」
「それで私に?」
「花を贈るにも適当なものは見当たらず、文の代わりならばこれを、と」
全く、意味の分からないことをする。花の代わりに落ちた羽根だなんて、普通は選ばないのではないだろうか。
けれど責める気にもなれない。怒りよりも喜びが勝る。結婚する前ならば、泰衡が望美からの文に、返事を寄越そうと考えることすらなかったのではないだろうか。文をしたためる時間もないとて、花を贈る、など当然、あり得なかった。けれど、今はこうして、望美に花の代わりに羽根を贈ろうと考えるほどの人になっている。
くすりと、笑った。何やら可笑しい。
「ありがとう。泰衡さんに、とても嬉しいと、伝えてくれる?」
「御意に」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜