さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
多賀城からやって来た使者――どうやら奥州藤原家に仕える郎党らしい――は、確かにこれを受け入れて、また平泉を出、多賀へと立った。その後ろ姿を、また柳ノ御所の門前から見送ると、これに倣っていた高衡が、
「不思議です」
と独り言じみて呟いた。
「今御館は、風雅を知っているのにも関わらず、そのようなものは不要と切り捨てるような人だった気がするのです」
でも、と望美を見て、高衡はふわりと女人のような微笑みを見せる。
「奥方様とともに過ごされるようになってから、変わられたように見えます。人の情すら、いらぬと言えるような、どこか恐ろしいほどの冷たさがあったのに、今はそうは思えません」
「泰衡さん、やっぱり変わったかな?」
「ええ、かなりお変わりになったように見受けられます。十以上も年嵩の兄を、昔、幼い頃は怖い方だと思っていたのです。国衡殿の方が、よほど親しみやすく、年近い忠衡兄上とはよく遊びましたが、今御館とはほとんど顔を合わせなかったし、お会いしたときも、少しも話ができませんでした」
けれど、今は違うと言う。以前よりずっと親しみやすい、などというほどではないだろうが。
「人と親しまれるのは苦手でしょうに、父の後を継ぐようになり、また奥方様の気質を受けて、私にもよくお声をかけてくださる」
「そうなの?」
泰衡が、他人とどう付き合っているか、思えば詳しいことは知らない。相手に何を語り、どう関わろうとしているのか。彼の不器用さは相当のもので、他者と親しく通じることも、不得手としているように見える。けれど、彼は彼なりに、たとえば秀衡のように、そして妻たる望美がそうであるように、他者との付き合いを密にしているのだろうか。
「今御館もまた、まだ上を目指していらっしゃるのでしょう」
奥州の発展と安寧のために、彼は尽力する。命を賭しても守ろうとする。この戦に勝ったならば、また、彼はいくらでも己を捧げるのだろう。そして望美は、そういう彼の隣で、生きて行こうとしている。
以前から、そうだった。
命を懸けているのは、四年前の戦でも同じだった。彼は、敵方にいる異国の神を滅するためだけに、大社を建立した。そして、神を滅ぼす力を、異なる神から手に入れた。政子――茶吉尼天が、マーハーカーラと呼んだ神の力を借り受けたのだ。神の力は人の身には余るもの。それを、己の身がどうなるか、ともすれば命を代償にしなければならないと知っていながら、実行した。そういう人だ。
(だから、いつも少し怖い)
奥州のためならどんなこともできる。その命すら捨ててしまえる。そういう覚悟と決意を、常日頃から抱いているから、望美は時折、気が休まらない。ともすれば、体調を崩して倒れてしまうのではないかと心配するのだけれど、本人は至って平気な顔をして、日々を暮らしていた。それが少し、憎たらしくもある。
思えば、婚姻する直前から、婚姻した後もしばらくは、泰衡に少しは休んで欲しいと、たまには一緒に過ごしたいと、何度も訴えた覚えがある。あの頃は、彼の体の心配よりも、もっと許婚、妻と過ごす時間を作って欲しいという、望美の願いに他ならなかった。けれど時を経るうちに、彼が体を壊してしまうと心配する度合いが大きくなった。
彼は、少し無理をするくらいの状態を好んでいるのかも知れない。それほどでなければならないと、己を叱咤しているように見える。奥州のために、利己すら捨てて、尽くし続けている。
上を目指している、という高衡の言葉どおりだ。泰衡は、この奥州を果てしなく豊かで大きな、それこそ「まほろば」のような国にしたいと考えている。浄土のように安らかに人々が暮らせる地にしようとしている。
全ては、奥州藤原氏の血を継ぐ者として、全うすべき役目なのだと、この大きなものを背負い込んでいる。
――婚儀の夜、望美が秘めてきたことを語る前に、泰衡もまた、望美にだけ告白した。
四年前の戦が始まる前、彼の父である秀衡が、源氏に襲われたという事件があった。警護の厚い伽羅御所にあって、夜闇に紛れたとは言え、蟻の子一匹、浸入を果たすなど難しいはずが、源氏の間者が入り込んだと言う、大いに不安を掻き立てられる出来事だった。
幸いにして、秀衡は命まで奪われなかった。しかし、戦に出るのは困難な体となり、代わりに陣頭指揮を執ったのが泰衡だった。
この事件について、二人きりとなった夜の閨の中、愛を語ることもせず、
「あれは源氏の仕業ではない」
いきなり、こう切り出してきた。それなら誰がやったのかと、目を丸くして訊ねる望美に、しかし彼にしては珍しく僅かに躊躇したようだった。
「もしもこれを聞けば、あなたも俺の元へ嫁したことを、後悔するだろう」
これを聞いて、望美は眉を顰めた。これまでも散々、泰衡には自分の気持ちを、ことあるごとに、嫌がられようとも言葉や行動で表してきた望美だ。どれほど冷たくされても傍にいることに決め、強引に押して、こうして一緒になれた。それなのに、泰衡はまるで望美の想いがその程度に軽いものだと思っているかのようで、何やら腹立たしかった。
「そんなことあるわけないじゃないですか!」
憤慨して思わず声を張り上げたが、いつもならば、うるさいと叱るところを、泰衡はそうはしなかった。
「俺が、実の父を殺そうとした男だとしてもか?」
非常に冷静な声で、問われた。
衝撃を受けないわけに行かなかった。眦が避けんばかりに目を見開き、言葉も失って、今宵より夫となる人の、からかうでもなく真剣な表情を見つめるしかなった。そして泰衡は、それ以上に何も語ろうとしない。ただ見つめ合うばかりになって、静か過ぎる夜の空気をゆっくりと吸い込むと、望美も少し冷静になれた。
「理由があったんでしょう?」
たとえば、父を憎んでいたなどという理由ではないだろう。彼がそうまでする理由ならば、奥州に関することだとしか考えられない。思えば泰衡は、秀衡と鎌倉に相対する際のやり方について、意見が合わずにいたようだ。一度、言い争っていたところを訪ねてしまったこともある。だから、彼が父を襲った理由は、その辺りが理由だと考える方が妥当だ。彼の性質から考えても、それしかない。
「訳があったとしても、罪は罪」
「だけど、秀衡さんは泰衡さんを許してる。そうでしょう?」
「許しているかどうかは、俺の知るところではない。ただ、憎まれているのでもないらしい。ともすれば、命を落とすところだったというのに」
父すらおかしな人間に仕立て上げている泰衡だ。しかし、その内心はおそらく口で言うほどのものではない。何故己を許すのか、彼は未だに父の心中を図りかねて、理解できずにいる。
「御館の意志は、今はいい。だが、神子殿、あなたは俺の元へ嫁ぐことに、躊躇いを覚えるのでは?」
「どうして、そう思うの?」
答えず、逆に問い返す。泰衡は眉を顰めた。
「躊躇うわけないじゃないですか。今さらそんなの――ううん、時期の問題じゃない。私は、泰衡さんが好きで、だから今ここに一緒にいるんですよ。たとえそれが許されない罪だったとしても、私の気持ちが揺らぐとは限らないのに」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜