さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
泰衡は僅かに驚いたように目を見張ったが、やがて呆れたような、あるいは感心するような、苦笑に近い少し歪んだ笑みを見せた。
「あなたは、本当に酔狂な人だ」
変わり者だと言われたようなものだった。けれど、不思議と不愉快な気持ちはなかった。
「だから、泰衡さんをこんなに好きなんですよ、きっと」
これには、泰衡もどこか苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
泰衡は己の父の命を奪おうとした人だ。それは、奥州のために犯した罪だ。
やがて、泰衡が以前にも増して、奥州にその身を捧げているのは、この罪を償うためでもあったのではないかと、望美はずっと思っている。
日々、夜遅くに帰る夫に、幾度となく、もっとゆっくり休むように、無理をしないように、と諭してきたが、泰衡はほとんど聞き入れてくれなかった。時折気紛れに、望美と過ごす時間を作ってくれたものの、それは緩やかに休むためと言うより、望美の不満が爆発しないよう、気遣ってくれていたものだ。
彼の安らぎになれると思ったことはなかったけれど、それでも、そういう存在になりたかった。――なれなかったけれど。この三年に及ぶ婚姻生活を思うと、罪悪感のようなものが疼きそうだ。
けれど、泰衡は望美を隣に置いてくれていて、時に冷たかったけれど、時に優しく抱きしめてくれた。彼にとっても、望美と言う存在が大きなものであればいいと、いつも思っている。戦のため、平泉を出る前に、妻に死なれることは辛いと話した泰衡の中で、望美は確かに形式だけでなく、本当の意味での妻となっていた。
「奥方様は、上を上をと、果てなく求め続ける我が兄を、生涯支えて差し上げてください」
高衡は微笑みながら、望美に請う。よもや泰衡も、これほど年下の弟に、このように言われているとは考えもしないだろう。だが、高衡にとって泰衡は親しみ難い兄であり、けれどそれでも、近づこうとした人でもあるのかも知れない。それゆえ、今、時に近しく接する兄を変えた望美に、これを願うのかもしれなかった。
「もちろん」
答えは、これ以外にあり得ない。
***
泰衡から羽根を贈られたときから数えて二度、日が沈んだ。望美は筆を取り、不器用な文字を料紙に文をしたためていた。
「あら、文を綴っているのね」
自室の文机に向かっている望美の元に、ちょうど朔が訪れた。望美の目の前に腰を下ろし、くすりと笑った。
「また泰衡殿へ?」
「そう。ほら、昨日高衡くんに付き合ってもらって、お祖父さんのところへ行って来たから」
お祖父さんと呼ぶのは、泰衡の祖父に当たる人物のことだ。藤原基成と名乗るこの人は、泰衡の母――既に故人だ――の父で、官人でもあった。かつては陸奥守を任じられ、奥州にやって来たものの、任を解かれて後も、奥州に留まり続けていた。
夫の祖父だ、時折は機嫌を伺いに行くのも、嫁としての役目だった。また、彼の人は長く都にいた人で、龍神の神子の伝説にも深く精通しているらしかった。望美と初めて会ったときも、生きているうちに神子と相見えるとは思わなかった、と驚きながら、喜んでくれていた。戦のために、泰衡が軍勢を率いて平泉を出てから、ようやく彼の人がどうしているのか、衣川のあちらの館を訪れることが叶ったのが、昨日だった。一人で行くことは高衡に止められてしまったため、遅くなってしまった。そも、高衡も時間を持て余しているわけではないので、かなり無理をして時間を作ってくれたようだ。
その高衡と郎党一人を供として、関山を越え、衣川を渡り、訪れた。
戦になるとは言え、特にそれを恐れることもなく、また悲しむ様子も見せない基成だったのだが、望美にしっかと言い聞かせてきたことがある。
「こうも戦が度々あっては、やはり心配なことだ。此度の戦が終わったならば、白龍の神子殿も心して努力すべきであろう」
生真面目な顔をしてこう諭され、そうですね、と答えるしかない身としては、どんな顔で頷くかは、少々躊躇うものがあった。望美の脇に控えていた高衡も、頬を少々赤く染めて、困っていたようにも見受けられた。
「赤ちゃんかあ……」
望美が思わず筆を滑らせつつ漏らすと、あら、と朔は目を瞬いた。
「どうしたの、突然?」
「ううん、ちょっと、昨日、お祖父さんと話してて、少しね」
ややも生まれぬうちにこうも戦ばかりでは心配だ、と基成は言うのだ。
――戦が終わったなら、早々に子を成すべきだ。
基成にしてみれば、娘を既に亡くし、娘婿も亡くなってしまい、いずれ泰衡と望美の間に生まれる子――娘や娘婿にとっての孫――の誕生を、生きているうちに、代わりに見届けたいという思いもあるようだ。
結婚してから三年が経過して、確かにそろそろ、そういうことがあってもおかしくはない。
この話を聞くと、朔は、そうね、と笑った。
「そろそろそういった話があってもいいかも知れないわね。平泉の人たちも、きっと期待しているでしょうし」
「そうだよね。そうなんだけど……」
だからと言って、簡単に授かるものでもなく、努力してもどうにもならないことも多い。
実際、望美も結婚してから、秀衡からも強く期待されていることは分かっていた。奥州の人々からも、望まれていると知っている。やはり、生まれるなら男がいいだろうが、性別などどちらでも構わないから、ただ早く生みたいと思ったこともある。期待されていると思うと、焦る気持ちも生じた。泰衡にそういったことを切々と訴えたこともあるが、夫は周りの反応など気にするなと言う。授かりものなのだから、焦ったとてどうなるものでもない。時が満ちれば、いずれ授かることもあるだろう、と運命に身を任せる構えだった。
泰衡の言うことはもっともだ。けれど、早く生まなければならないと、自分でさらに圧迫していたときにあっては、彼の言葉が理不尽に思えたこともある。
けれど、あるときふっと、どうでも良くなった。
泰衡に泣きながら、自分がどんな気持ちなのか、散々に喚き散らしてしまったときだったか。泰衡は、望美が泣き叫んでいる間中、何も言わなかった。反論はもちろん、相槌すら打たず、ただ聞いているだけだった。それで、もう何も言うことがなくなってしまったときに、
「それで?」
などと訊ねられて、あまりに冷静すぎる泰衡に、逆に面食らった。驚いて、言葉もなかった。人があれほどこの気持ちを訴えたというのに、それがどうしたと言わんばかりだ。だが、腹が立つよりも、呆気に取られてしまっていた。
「それでって……?」
「それで、あなたはどうしたい?」
重ねて訊ねられる。あれだけ取り乱した妻を前にして、それほど落ち着いていられるものだろうか。泰衡も相当変わった人ではないかとすら思った。
「どうって、だから」
だから、どうしたいのか。急に、頭の奥から焦燥感が消え去って、茫然とした。子どもが生みたい、というのは嘘ではない。周りに言われて焦っているのは事実でも、望美とて好きな人の子を授かりたいと望んでいる。それならば、どうしたいのかと問われれば、答えは一つしかないのだけれど、それをすんなり口にすることはできなかった。今さら、恥ずかしいなどとは言わない。けれど、出てこなかった。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜