さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
思わず、俯いた。目の前の泰衡が息をついた、それが前髪にかかる。
「今、あなたに触れて簡単にできるものなら、そうしよう。何もせずにできるものでもないが、努力しても成らぬことはある。今すぐ絶える命ではないのに、焦る必要があるのか?」
いちいち、彼の言うことは正しい。だから、膨れ上がっていた焦燥感は、急激に萎んでいった。
そのまままた月日は流れて、今でも泰衡との間に子はないが、それがどうということもない。まだ、望美も泰衡も若い。だから、もう少し先のことでもいいとは考えていた。
ただ、基成にああ言われてみると、確かにそれもそうだろうと感じてしまった。戦は絶えない。いつ、どこで倒れるかも分からない世の中で、この先の保障はどこにもない。
それなら、今、確かに互いに生きているうちに、この戦が終わったなら、やはり天からの授かりものを受けたいと思った。
朔は、言葉を濁しながら、考え込む様子の望美の肩に優しく触れる。
「もちろん、焦る必要もないのよ」
「そうなんだよね。でも、もし今すぐ授かるものなら、早くそうなりたいなあとは思うの。色々な人を安心させたいし、私も親になる喜びを知りたいし、泰衡さんも一緒にそういうの知って欲しい」
奥州藤原氏当主として、陸奥守として、奥州を守り発展させる喜び以外に、藤原泰衡個人としての幸福をもっと強く抱いて欲しい。己の子が在るという感覚も知って欲しい。
彼を愛し、彼と生きると決めたとき、ただ誰かと生きる喜びを知って欲しいと願ったけれど、今も同じだ。彼に知って欲しいことは、まだたくさんある。もっと多くのことを、ともに知りながら生きたい。
その前に、と望美は付け加えた。
「戦に、勝ってもらわないといけないけどね」
小指と小指を結んで、約束をした。必ず望美の元へ帰ってくると、彼は約した。だから、この戦には勝てるはずだ。
ここで、白龍の神子だった自分が、心から願うから、きっとこの後に続く願いも、皆、形になるだろう。
望美は筆をそっと走らせる。基成と交わした言葉のことも、望美が願っていることも、そうして、贈られた羽根のお礼をもう一度、記した。
***
多賀城に文を送ってから三日ほどが過ぎた。
泰衡から返事が来ることを期待しながら、この数日間をやり過ごしたが、結局は未だに言伝を携えた使者も来ていなかった。
いよいよ、彼は望美のことを考える暇すらなくなってしまったのだろうか。そう、戦が本当に始まろうとしているのだろうか。
「何も見えないか……」
大社に上り、望美は南を見やる。しかし、多賀城の形など見えるはずもなく、さらに先、国衡や忠衡が向かった白河関の方面なども、どちらの方角かもはっきりしないほどだ。山稜に囲まれる平泉では、戦の状況など、自身で知る術はない。
かつて泰衡は、この大社に立ち、戦の総覧し、指示を出していた。異国の神と向き合い、戦った場所でもある。奥大道まで出て戦っていた望美は、ここまで戻ってきて、泰衡の無事な姿を見て、心底安堵したものだった。
(まだあのときは、好きかどうかなんて知らなかった気がする)
四年前の戦の最中は、知らなかった。まだ、ただの冷たい人だと、泰衡のことを思っていた。
けれど、それから春になるまでに、気づいてしまった。自分は彼を好きになってしまった、彼と一緒にいたいと願っている、もうどんな場所へも行けない、元の世界に帰ることすらできない、――この人を好きだと、思った。
しかし泰衡は、嫌悪の感情はすぐに顔に出す割りには、他の感情はなかなか表に出さない人だ。だから、好きだと告げた望美をどう思っていたのか、当時のことは今も分からない。夫となった人に訊ねても、答えなどくれないだろう。今ならば大事にされている、きっと愛されているのだと思えるものの、あの頃はそういった気持ちなど少しも垣間見られなかった。ただ、望美の想いを完全に拒むこともなかった、それだけだ。
「好きです」
結婚する前、許婚にすらなっていない頃、何度も告げた気持ちを、今、また呟いてみる。秋風に攫われる。この風が、この声を泰衡の元に届けてくれればいいのに、と思わずにいられない。
何年経っても、好きだという想いは消えない。それどころか、きっとかなり増幅している。心を大きく占めている。
あの山々の向こうで戦いに挑もうとしている愛しい夫の姿を思い浮かべる。
「――奥方様」
唐突に、呼びかけられて、我に返る。
だが、階を上がってきた人物を見た望美は、驚愕し、息を飲み込むしかなかった。しろがね、と掠れた声が零れ落ちる。
鎧に堅く身を包んだ銀が、そこに在った。泰衡とともに戦へ向かったはずの郎党が目の前にいる、そこで膝を折り、頭を垂れている、どういうことか分からなかった。
「どうしたの、銀? 何でこんなところに」
「先日より、阿津賀志山および石那坂において、鎌倉との戦が始まりましてございます」
驚くことではない。戦うために、彼らは奥州を出、南へ向かったのだ。けれど、愕然とした思いに駆られるのはどうしようもなかった。やはり、どうあっても避けられるものではなかった。
心を落ち着かせながら銀を見ると、秋になった時期に、急ぎでここまで来たことがよく分かるほど、汗を滴らせ、さらにその姿は土に塗れている。
「そう、分かった。わざわざ銀が伝令に来てくれるなんて、ありがとう……」
「奥方様、それから、泰衡様より奥方様に命令が下っております」
「……命令?」
望美に対して、泰衡が命令として言葉を下すなど、今までそうそうないことだった。どうしたのだろうかと訝る望美に、銀は告げる。
「すぐに旅立ちの準備をし、北の地、外ヶ浜に向かうようにとのことにございます」
「たび? 外ヶ浜って、どうして突然――」
あまりに予想していなかったことに、驚かないわけに行かない。疑問とて抱く。しかし、銀は頭を垂れるばかりだ。
「泰衡様におかれては、奥方様が如何に拒もうとも、必ず平泉を出るようにせよとの仰せにございます。どうぞ、お聞き入れください」
銀にしては、頑なな物言いだ。戦の前に、ともに禁じられた柳ノ御所へ入ることを手伝ってくれるほどだったと言うのに、どうしたことなのか。
眉を寄せる望美を、僅かに見上げ、お願いいたします、と彼まで懇願するかのようだ。
何故か、くらりと眩暈を覚えた。何故そうまでするのか、何故北へ行けと言うのか、考えただけで、不安が大きくなった。それに押し潰されそうになった。
「戦況はどうなっているの?」
訊ねたことを後悔するかも知れないと思いながら、それでも訊ねるしかなかった。
「まだ決しておりません。ですが、鎌倉方の勢いは非常に大きなもの。万一のために、奥方様には安全な地へお移り頂きたいとのことなのです」
「……万一って、ねえ、本当にそれだけなの?」
「阿津賀志山における国衡様の采配、戦い振りには、敵も苦戦を強いられております。それほど案じずとも、大丈夫です。ただ、泰衡様は奥方様の無事を確かなものとなさりたいだけなのです」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜