さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
心臓が、奇妙なほどよく胸を叩いている。泰衡はそれほど過保護な人だっただろうか。それとも、ともに過ごした時が、彼を変えたのだろうか。本当に泰衡はただそれだけのために、望美を北の地へ行かせようというのか。
(何だか怖いよ、泰衡さん)
外ヶ浜と言えば、結婚の前に、泰衡と訪れたことのある場所だ。海を眺め、そこから見える島影に、いつかともに渡島に行こうと話したことのある地だ。奥州の北端の地ということになる。
今でも十分離れているのに、ここからずっと遠く離れては、使者すらなかなかやって来られなくなるだろう。知りたい情報が、届き難くなる。
「御所の方々は既に支度を始めております。奥方様も、どうぞお急ぎください」
銀にまたも促され、応じざるを得ない。
不安に駆られながら、望美は銀とともに伽羅御所へ帰り着いた。自室ではもう支度を整えた朔が待っていて、望美の荷物もまとめにかかろうとしているところだった。
「朔――!」
「望美、良かったわ。どこに行っているのかと思ったけれど。銀殿に、もう聞いたのね?」
「うん。でも、突然出て行けなんて、何だか怖いの」
「望美……。大丈夫よ。あなたがあなたの愛する人を信じなければ。そうでしょ?」
そうだね、と答えながら、支度を始める。着物など簡素なものだけでいい。着飾る必要など少しもない。
そのときふと目に入ったのは、大きな櫃だ。あの中には、もう二度と着ることのない、異界の服が入っている。そして、それとともに丁寧にしまっているものがある。
蓋を開け、それを取り出す。白い手拭いの中に包まれたもの。
(白龍の逆鱗は、置いていけないよね)
強大な力を秘めたものだ。これを完全に目の届かないところに置いて出て行ってしまうことはできない。そっと懐に忍ばせる。これは、誰にも見せない方がいい。
――約束だ。
幾度も思い出す彼の言葉。そして、泰衡が平泉を立つときにも念を押されたこと。
右手をかざし、小指を立てる。今までに交わした約束は三つになっていた。一つはともに渡島へ行くこと。一つは、泰衡が負った責務、必ず無事な姿で望美の元へ帰るということ。それから、最後の一つは、婚儀の夜に交わした、望美が負ったものだ。
懐を押さえるように、襟元に触れる。息を吸い込み、目を閉じる。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
それから望美は自らが厩に赴き、白い毛並みの雪路の手綱を引いて出る。既に家人により鞍などはつけられているが、戦場に出るわけではないため、ごく軽装にしてあった。武装しているわけでもない。
支度を終えていた朔は、既に他の女房や武士たちと並んで門前にいた。銀も、そこで望美が出てくるのを待っていた。
「奥方様、まずは朔様とこちらの武者、女房とともに外ヶ浜へおいでください」
「うん。……みんな、支度は済んでいる?」
「はい、既に皆、奥方様とともに参る覚悟にございます」
伽羅御所における女房頭でもある藍野の返答に、望美は僅かばかり苦笑する。覚悟という言葉は重過ぎる。けれど、確かにここを出ることに抵抗がないわけではない望美だ。平泉を故郷とする者にとっては一大決心でもあるのか。いつか戦が故郷を焼くのではないか、その地を密やかに離れねばならぬのかと思えば、辛くないわけもない。
けれど、望美は敢えて、くすりと笑いかけた。
「すぐにここに戻れるんだから、覚悟を決めるほどじゃないよ」
「……ええ、そうでございましたね」
藍野も、他の女房も、深く頷いた。
そっと雪路の首を撫ぜる。
「また、長い旅になるかも知れないけど、どうかお願いね、雪路」
京への道のりも、雪路にとっては慣れぬ道のりで辛かっただろう。また、北へ向かい山を越え、川を渡らねばならない。他の武者たちが連れようとしているのは駄馬だ。旅に必要な物資を背負っている馬と比べれば、雪路など荷物らしいものなど下げられていない。この馬の背中には望美のための鞍が載せられているのみ。
「その荷物、少し雪路にも運ばせる方がいいんじゃない?」
ふと思い立って馬を引く武士に声をかけたが、いえ滅相もない、と慌てふためかれてしまった。
「奥方様、雪路は奥方様の馬です。あなたを運ぶために在るのですから」
脇から武士を庇うように応えたのは銀だ。
「でも、雪路は何も背負っていないんだし、私はしばらくみんなと一緒に、自分の足で歩いていくつもりだし」
「奥方様、しかし、それはなりません。雪路は奥方様を乗せて駆けなければなりません。荷を負わせては、駿馬となれませんので」
目を瞬いた。さすがに気が付かされた。望美の愛馬は、主を乗せて走り抜けるためだけにある。もしも敵が旅の道に潜んでいたとき、藤原泰衡が妻は一人でも、逃げ延びなければならぬというわけだ。思わず眉を寄せる。望美だけ生き延びよと言われているようで、胸の奥で何かがつかえる。しかし、銀に文句を言ってどうするのか。彼もまた、望美をよく案じてくれている。他の武士、女房たちも彼と同じように望美を見ている。
「分かった。――それなら、行きましょう」
「奥方様、どうぞご無事で」
銀が十人にも満たない一行を見送る。望美たちの姿が見えなくなれば、間もなく彼も、多賀へ戻るのだろう。行ってくる、と彼にもう一度告げ、先導する武者の後に続いた。
雪路が、ぶるりと鼻を鳴らした。武者震いのように馬首を震わせる。手綱を取り、ともに歩む望美もまた、緊張している。全身が強張ってしまいそうなのは、恐怖に似たものがあるからなのか。
「望美、大丈夫?」
伽羅御所を出てすぐに、隣に追いついた朔に案じられる。
「うん、大丈夫だよ」
「それならいいけれど、無理はしないで」
「朔こそ、何だかごめんね。色々と巻き込んでしまって」
京から望美のために出てきてくれた朔を、また落ち着く場所もないままともに追い出されるような形になってしまった。いいのよ、と彼女はあくまでも笑顔だ。
「それに、少しはあなたの支えになれるのではないかと思えば、私、とても嬉しいのよ」
きれいな微笑みに、望美の方が喜びを覚える。だから、どうにか微笑みを返すことができる。
「ありがとう、朔」
「お礼なんていいのよ。それに、私があなたの傍にいるのは、きっと泰衡殿の願いでもあったからなの」
「泰衡さん?」
夫の願いとは、どういうことだろうか。
「あれは泰衡殿が平泉を出る前のことだったわ」
思い出話を語るような様子で、朔は応える。
「御所で、たまたま帰ってきた彼と会って、それで、私が平泉に来てくれて良かったと言ってもらったの」
そのようなことを泰衡が語るとは、天と地がひっくり返ったほどには驚かされる。他人にそういった己の心中を話す質をしていない人なのだ。
朔は驚いて目を丸くする望美に、思わずと言った様子で声を零して笑った。
「望美の傍に、私がいてくれることで、安心できると仰っていたのよ」
「……それって?」
「聞いたときにはまだ、泰衡殿があなたを戦に連れて行かないなど知りもしなかったから、よく分かっていなかったけれど、今思えば、あなたを平泉に残して戦に赴くつもりだったからなのね。ご自身がいない間、あなたの傍には私がいれば安心だという意味だったのかも知れないわ」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜