さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
そう、きっとそうなのかも知れない。
連れて行って欲しいと、泣いて喚いて、彼を困らせた。その前から、一人残していく望美のことを、彼はそれほど案じてくれていたのだろうか。望美の傍近くに、その親友がいてくれる。妻の支えとなる人がいることで、彼はやっと旅立って行けたかのようだ。もちろん、朔がいようがいまいが、彼は望美を連れて行ってはくれなかったのだろうが、それでも、望美がどうなるか、どんな気持ちで過ごすしかなくなるのか、考えてくれた証拠だ。
泰衡は、望美のことをちゃんと考えてくれている。改めて、幾度も重ねてそれを知れば、夫を思う気持ちも少しずつ深まる。彼が帰ってきたとき、彼が苦しむほどには、きつく抱きしめたくなる。
望美が泰衡を思い、息をついたとき、背後から追いついて来る蹄が地を叩く音が響いてきた。よもや敵かと振り返る。まだ平泉を出てもいない、そのようなことはあるはずもないと思いながら、身構えて見やると、黒毛の馬を駆って来たのは、高衡だ。
「奥方様、申し訳ありません!」
「どうしたの、高衡くん?」
彼の愛馬は器用に望美の脇に止まった。雪路は、隣に滑り込んできた馬に僅かばかり警戒したようだったが、襲われる心配もないと分かったのか、すぐに落ち着いた。高衡は、望美の前に降りた。
「申し訳ありません。一つ、報告したくて」
良くない報せかと疑いかけたが、高衡が口元に笑みを覗かせているため、そうではないらしいと気づく。
「私も、多賀へ向かうこととなりました」
「――え?」
「おそらくその後は、国衡殿の下で、腕を振るうことになるかと」
戦に出るのだ。
彼はまだ戦を知らない、人を斬ることを知らない少年だ。それが、初めてそれらを知ることになる。泰衡にとって大事な弟で、望美にとっても同じほどには大切な人、家族でもある。母性とも言える感情が僅かに浮上して、彼が喜びに笑みを浮かべることを、受け入れ難く感じる。だが、行くなとは言えるはずもない。高衡もまた、武者なのだから。
「必ず、奥州のためになる働きをいたします」
誓うように言う高衡を見つめ、やがて、告げる。助言ではない、願うことを。
「高衡くん。それなら、どうか自分の命を、大切にね」
「え、あ、はい」
思ってもみなかった望美の言葉に、少々戸惑う高衡だが、構わず、望美は続けた。
「生きていなければ、意味はない。だから、どうか奥州のために戦う中でも、自分が生きていくことも、考えてね」
故郷のために命を落とす、それは悲しいことだ。少なくとも、彼ほどに若い、幼いとも言える齢の人が命を落とすなど、悲劇だとしか思えない。だから、生きて欲しいのだと告げる。
神妙な顔を見せる高衡は、やがて、はいと殊勝に頷いた。
「心に刻んでおきます」
それでは行って参ります、実直な様子で頭を下げ、再び愛馬に跨ると、武者姿の少年は駆け去っていった。その姿が、やがて見えなくなると、朔が望美の肩に触れた。
「大丈夫よ。みんな、帰ってくるわ」
そう励まされるほどに、今、望美は険しい顔をしているのかも知れない。うん、と頷いて、再び北へと向かう。
***
三日を経て、望美たちは無事に、敵に襲われるようなこともなく、奥州最北端の地、外ヶ浜に辿り着いた。平泉よりもさらに涼しい気候だ。
結婚する前に一度だけ訪れたことのある場所だ。この辺りで最も奥まった所にある寺院にも見える屋敷の門前を目指した。人々が、望美たちを遠巻きに眺めたりなどしている視線が感じられたが、皆、どこか不安そうな顔に見えた。戦の足音は、この地からはまだ少し遠いのだが、今後どうなっていくのかは、誰にも知れないことだ。
その門の前には、門衛が二人揃っている。望美たち一行の姿を見つけるなり、一人が屋敷の中へ引っ込んだ。
望美は、一人残された門衛に一礼する。
「陸奥守藤原泰衡が妻にございます。アトイ殿を頼り、参りました」
ここでは己を装う。貞淑な妻の振りをしてみると、しばしお待ちください、と返された。間もなく、中から出迎えのために幾人もの家人らしき者たちが現れた。その筆頭と見える壮齢の男性が、望美を前にして、丁寧に頭を下げた。
「おいでをお待ちしておりました。主は奥でお待ち申し上げておりますゆえ、こちらへ」
ありがとうございます、とこれも丁寧に応じ、望美と朔は、郎党たちが現れた家人たちにより、散り散りに案内されていくのを確認した。
「朔も、一緒に行ってくれる?」
彼らが主と仰ぐアトイと言う名の老爺は、この辺りの民を束ねる人でもある。
この地に住まう人々は、かつて蝦夷と呼ばれ、朝廷に与したとて、今は俘囚と呼ばれている。この付近の俘囚をまとめているのが、アトイだった。齢は既に七十を越えているはずだが、未だに衰えぬ人物だと、泰衡が話していたのを思い出す。望美もたった一度だけここを訪れたときに会った。失敗をして、崖を落ちて痛みに呻いていた望美を見つけたのが、アトイだったという、少々情けない経緯があって、あまりアトイとはまともな会話をしていない。相手からすれば、自ら愚かしく崖を落ちた間抜けな娘という印象だろう。過去を思い出すと、今から会うなど緊張してしまう。朔に同行を願う理由はそこにあった。
「私がついて行っても大丈夫かしら?」
「――構いませぬ。お二方はともに龍に愛しまれた女人。主も拒みはせぬでしょう」
案内役の男性が二人の話を聞いて、望美よりも先に応じた。微笑みもしないが、優しく受け入れてくれたので、ほっとした。ありがとうございます、と二人で告げると、いよいよ屋敷の奥へと招かれた。
最奥と思われる部屋の手前で、おいでにございます、と男が告げれば、お通しせよ、と中から帰ってくる。しわがれた声は、三年前よりもさらに乾いた音になったような気がする。どうぞと掌で示され、望美は中へ踏み入れた。朔もこれに続く。
アトイは、静かに座している。元々大きな人ではない、寧ろ腰を折り歩く姿は、とても小さく見えた。けれど、抱いた尊厳の高さのためなのか、大きな存在だと思わされる、そういう人だ。果たして、彼の人は上座を空け、その手前に上座を向いて座っている。朔はアトイよりも少し後ろにある円座に腰を下ろし、あなたはあそこよ、と空いたままの円座を指差した。上座の円座は、陸奥守の妻のために空けられている。
僅かに緊張しながら、上座に落ち着いた。
アトイが、床に拳をついて、頭を下げていた。
「平泉より無事のご到着、安堵いたしました」
かつてはもっと尊大な口調で話されたものだったというのに、今は丁寧に話しかけられる。それは、望美が泰衡の妻となったからか――以前はまだ許婚だったから――、あるいは泰衡が陸奥守及び鎮守府将軍となっているからなのか。いや、どちらも影響しているのだろう。
「こんなときに、突然、こうして招いていただいて、ありがとうございます。アトイさん」
「誰あろう、我らが俘囚主たるお方の頼みとあらば、心より尽くさずにおれませぬゆえ」
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜