さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
平泉を出て行く、と九郎が言い出したとき、望美は少なからず衝撃を受けた。彼らは、ずっと平泉に暮らすものだと思い込んでいた。泰衡の妻となり、皆で過ごした高館から伽羅御所へ移ってから一年ほどが経った頃だった。
泰衡は、仕方あるまい、と言った。
「だけど秀衡さんは、九郎さんと泰衡さんが二人で奥州を守ってくれることを願っているんでしょう?」
そう訊ねた望美に、そうらしいな、と泰衡の返答はどこまでも素っ気なかった。
「泰衡さんは止めないの? 九郎さんと弁慶さんが出て行っても気にしないんですか?」
長くともに過ごしてきた仲間がいなくなることに、寂しさを覚えている望美にとって、泰衡の反応は何やら気に食わなかった。思わず責めるような口調になってしまう。けれど、泰衡は特に不快を感じたようでもなく、仕方ない、ともう一度言った。
「また、鎌倉殿に睨まれ、己のために平泉が戦火にさらされるかも知れぬと、気掛かりなのだろう」
「でもそんなの、九郎さんたちのせいじゃないって、前に泰衡さんも言ったじゃない。これは奥州の戦だからお前たちは関係ないって言われたこと、忘れてませんからね」
鎌倉は以前から、奥州を狙っていたのだ。そこに、九郎という格好の理由を見つけた。彼がいるから、奥州を討つ、そういう名目が立つ。だから鎌倉が奥州に戦を仕掛けることはお前たちのせいではない、だからお前たちは戦に出なくていいと、泰衡は望美たちの戦への介入を受け入れてくれようとしなかった。最終的には、望美たちが勝手に戦いに出たものだったけれど。
「だが、鎌倉の付け入る隙になっていることは事実だろう。俺としては、どんな名目があるにせよ、鎌倉がこちらに来ることはこの先皆無だとは思っていないがな」
九郎が奥州にいようがいまいが、鎌倉が奥州を狙う事実は変わらない。何かしら理由をつけて、いずれやって来ないとは言い切れない。
「それでも、九郎が奥州の重荷になりたくないと考えているのなら、本人の意志に任せるだけ。大体、こうと決めたら止まらない人間だろう」
「そうですね……」
本心かどうかは知らないが、彼は大陸を見てみたいと主張しているそうだ。この国よりもずっと大きな地に行きたいと言うのなら、無理に止めてしまうわけにもいかない。
どちらにしても、と泰衡は言った。
「九郎は、ひとところに留まるよりも、自由に羽ばたく方が似合っている」
「……うん、本当に、そうですね」
己の志と正義で前へ進む人だ。様々なものを見て、様々な思いを抱いて、駆けて行く人だ。
だから、望美も泰衡に倣い、旅立つ人を見送ったのだった。
その彼が、こうして舞い戻り、奥州のために、望美と泰衡のために、戦ってくれる。心強いことだった。
九郎と弁慶は武装を整え、大陸で手に入れたという馬に跨り、泰衡の在る多賀城へと向かった。望美たちが外ヶ浜にやってきた次の朝のことだった。
アトイが屋敷に用意してくれた別棟の自室に、望美は在った。
朔も隣の部屋を与えられたが、それぞれ一人で使うには広すぎて、結局同じ部屋で一晩を過ごし、今宵また、外ヶ浜で迎える二度目の夜が迫っている時刻のことだ。
夕餉も終え、あとは寝る支度をするばかりというときに、野太い武者の声が、奥方様、と呼ばわってるのを聞いた。ともに平泉から来た女房の一人、菅生が応対に出たようだが、彼女はすぐさま武者姿の男を従え、望美たちの元へ戻った。
武者は、失礼いたします、と丁寧に頭を下げた。顔を上げると、見覚えのある顔だった。奥州武士の一人だろう。ともに鍛錬をしたことがあるはずだ。
「奥方様、黒龍の神子様、ご無礼をお許しください」
「構わないから、用件を聞かせて」
息せき切って現れた、慌てている、そういった様子の男を見ていれば、非礼がどうだと論じている場合ではない。
「二日前、阿津賀志山の守りは崩されました」
一瞬は訳が分からなかった。理解した後、望美へ目を見開いた。武者は、眉を寄せ、苦しげに見える。
「負けたの?」
「鎌倉の軍勢は、阿津賀志山を越え、北へと侵攻しております」
「――そんな」
こう漏らしたのは、朔だった。望美は声も漏らせず、ただ茫然とするばかりだ。最大の要としていた防塁が崩されたことは、衝撃以外の何ものでもない。
息を飲み込み、冷静になろうと努める。確認したいことはいくつもある。
「では、国衡さんたちは? どうなったの?」
阿津賀志山での大将であった国衡、そして石那坂に構えていた忠衡、あるいは後から戦に加わるため旅立った高衡、泰衡の兄弟のことも気掛かりだ。すると、武者の表情はますます沈んだ。声も、掠れる。
「国衡様は、鎌倉の武将に首を取られ、忠衡様も石那坂にてお命絶たれたとの報が入っております」
信じたくないと思う。けれど、否定したところでどうなるのだろうか。望美も表情を歪める。息苦しさを覚えた。それでも、問いかける。
「……高衡くんは?」
旅立つ彼に、望美は自分の命も大事にして欲しいと告げた。そうして話した彼まで、よもや命を落としているのではないかと思うと、さらに辛い。
「高衡様は、行方こそ知れぬものの、敵の将に素直に投降したのを見たと言う者がございますゆえ、ご存命かと」
「それは、本当?」
「はい。彼の方がお連れになっていた武士たちに、奥方様のお心に適うように、と話しておられたのを聞いたと言う者もあるようでしたが」
望美の心に適うように――それは、望美が己の命を大切にして欲しいと語ったことを指すのだろうか。
敵に捕らえられ、今後どうなってしまうかは分からない。だが、生きている。それが事実なら、それなら、希望がないわけではない。
そう、と応じた望美の頬を、涙が滑る。人が多く命を落としたこと、大切な家族でもある人がこの世からいなくなったことが辛い。それと同時に、無事に生きている人もいる喜びも覚える。相反する感情に、涙が溢れてきた。
しかし、すぐに袖で涙を拭い、また使者たる武士を見やる。
「泰衡さんは、どうしているの?」
「多賀城をお出になり、平泉へお戻りに」
「無事なのね?」
「はい。今御館におかれては、奥方様は何も案ずることはないと、そう伝えるよう、承って参りました」
心配するなと言うのか。しかし、不安は抱いている。無事に生きていることは嬉しい、けれど、本当に彼は大丈夫なのだろうか。
(約束したもの)
自分に言い聞かせる。
胸に手を当て、深く息を吸い、吐き出す。落ち着いておかなければならない。
「わざわざ急ぎでここまで来てくれて、ありがとう。平泉に戻るのなら、泰衡さんに伝えて欲しいことがあるんだけど」
「どのようなことでも、お言いつけください」
「九郎さんと弁慶さんが、多賀城に……今は、たぶん平泉に向かっているはずだと、伝えて」
「御曹司方がいらっしゃると?」
「二人とも、奥州のために力を貸してくれると言うの。兵は率いていないけど、九郎さんがいるだけで、前のときも士気が上がるくらいだったでしょう」
だから、きっと力になる。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜