さようならと告げる鳥の聲が聴こえる
銀が、他人の名に敬称もつけず呼ぶことは滅多にないことだ。泰衡の手前と言うよりは、銀自身が河田次郎を許すまじと思っている証だろう。
傷が痛むことを承知で、構わん、と応えた。一度声を出してみると、走る痛みなどさしたるものではないように感じた。
「……鎌倉に逃げ込んだのだろう」
「はい、私もそのように考えております」
「俺がこうして大きな傷を負ったことを、報せに行ったのだろうな」
総大将の怪我や不調、死は敵に好機を与えるものとなる。
泰衡は銀から視線を外すと、何もない天井を見上げる。外から差し込む夕陽に、朱に染まる部屋は、長く暮らした伽羅御所の寝所。
ここで、三年をともに過ごした人は、北の地にいて、戦を終える夫の帰りを待ち続けている。
――帰ってきたら、私を強く抱きしめてくださいね。
泣きながら、笑いながら、彼女は泰衡に願った。努力すると、泰衡は応えたのだった。
目を閉じてみると、息苦しさから解放されるような気がする。楽になれるような心地になる。だが、刺された場所でもないのに、胸の奥が痛む。
「銀」
「はい」
「……全軍に、残った者に、伝えろ」
「はい」
「平泉を捨て、逃げるか、あるいは源氏に降伏し身を預けるか、生きられる方法を己で考え、行動するようにと」
銀は驚愕したように絶句したが、しばしすると、御意、と静かに頷いた。そのまま項垂れたように見える。
命運は尽きた、と泰衡は受け入れる。
泰衡の言葉を聞いた銀が、受け入れるばかりで、それ以上何も言わぬところを見ると、どうやらここで泰衡の生も終わるときが来ているようだ。抗う肉体は痛みに耐えて、泰衡を覚醒させたが、無駄な足掻き、助かる見込みはないのだろう。薬師も何も言わずに出て行った。
――約束、してください。
望美の小指と己の小指を結んで、誓った約束は、果たせそうもない。彼女は泣くだろう、泰衡を責めるのだろう。そしてきっと、気がついてしまう。その手に残されたままの強大な神の力に、この数年、決して使うことのなかったそれを、使おうとする。婚儀の夜、その傲慢で身勝手な罪に、泰衡も慄いた。他人の生きる道、その命の在り様すら歪める行為だ。二度と使うなと約束した、けれど、彼女は泰衡の死を前に、どうするだろうか。考えるだけで、ぞっとする。
そう思ったとき、彼は気づいた。
「……銀、しばらく出ていろ」
「しかし」
「一人静かに、最期の言葉を考えたい」
御意、と銀は答え、そっと部屋を出て行った。
そうして、この寝所には泰衡一人が残されている。そのはずだが、違う。人の気配がある。
「そこにいるのか?」
塗籠の向こうに呼びかけると、がたがたと軋みながら、戸が開いた。そして、思ったとおり、望美の姿が現れる。泣き顔の彼女は、目を赤く泣き腫らしている。その胸元に、淡く光るのは白龍の逆鱗だ。
彼女は、塗籠の戸の前で、堅く立ち尽くして、近づこうともしない。泰衡がいるとなれば、すぐさま駆け寄るような人が、珍しい。
体を僅かに動かすことすら困難を感じる泰衡だが、掛けられた衾から腕を出し、彼女を手招いた。すると、今度は一息に泰衡の傍らまで近寄ってきた。だが、彼はもう起き上がることもできない。望美は膝を折り、間近に泰衡の顔を見る。
彼女の涙が、泰衡の頬に落ちてきた。痛みを堪え、泰衡は彼女を招いた右手を伸ばし、その頬に触れた。僅かに撫ぜる。
「泣くほどのことではない」
「泣きますよ」
「……俺が死んだと、銀が知らせたか?」
頷く妻の姿に、息をつきたくなった。彼女の胸元に下がる逆鱗は、彼女に時空を越えさせた。過去に遡ったとしか思えない。泰衡の死を聞き、それゆえに彼女は現れたのだろう。外ヶ浜から、泰衡が斬られたことを知り、一日と経ずに戻るなど不可能だ。まず、泰衡が死んだことすら、彼女の元に到達するわけもないのだ。
「約束をお忘れか」
戦の前にも、念を押して出たというのに。
望美は途端に、表情をそれまで以上に歪めて、さらに涙を流した。
「先に、約束を破ったのは、泰衡さんだもの……!」
責める口調、泣き声、それゆえ、震えている。揺れている。
「それに、銀に約束を破るなって言葉まで託して、ずるい!」
必ず戻ると、無事に戻ると、彼女と約した。忘れたわけでは、決してない。いつでもそれは、心の中にあった。
長い髪の房が、彼女から零れて、泰衡の肩に触れている。頬に触れていた手で、その房を指に絡めた。この髪が伸びたそれだけの時間を、ともに生きた。
「でも、許して。だって、変えようと思ったんじゃないの。ただ、最後に、会いたかったんです。ただ、会いたかったから来たの。何も変えないから」
望美は、訴える。涙声で、その手で泰衡の頬に触れながら、許しを請う。
泰衡のことを好きだと言い続け、恋だ愛だと騒ぐ人だ。煩わしく、鬱陶しかった。そんな人を傍に置くことにしたのは何故なのか、己の心中すら量れずに娶った。それから、三年という月日が過ぎて、傍にいることが当たり前の存在になっていた。いなければ違和感を覚える、空虚だと感じる。
「泰衡さんを救うこともしないから。だから、会いに来たことは、許して……」
これが最後だ。泰衡は彼女に救われることを望まない。それをよく承知している望美は、会いに来ただけだと言い、彼の頬に触れている。
恋だとか、愛だとか、そんなものは理解できない。
今も、理解しているとは言い難い。それがどんな感情なのか、いつもよく分からずにいる。ただ、今こうして彼女を置いて逝くことに、胸が痛む。いま少し、彼女とともに生きてみたかったと思う。それを、愛と呼ぶのだろうか。
指先に絡めるその髪を、頬に触れた彼女の手を、自分を見つめる涙に濡れた双眸を、あるいは彼女を形成する感情も含め、その全てを、このまま手離して逝くことに、悔いを感じる。それが彼女への想いの全てかもしれなかった。
だが、失うのは泰衡ではなく、望美の方だ。泰衡はただ死んでいくだけ、残されるのは望美だ。
「結局俺も、どの約束も果たせぬままだったな」
「……え?」
「あなたの元に帰ることもできず、ともに蝦夷島へ行くことも叶わない」
彼女を娶る前から交わしていた約束も、守れぬまま、彼は逝く。
望美は頭を振った。
「もう、いいの。いいんです……。だって、傍に、ずっと傍に生きていられて、それだけで、今の私は……幸せだったと思うから」
「珍しく、謙虚でいらっしゃる」
望美は僅かに笑った。涙に濡れたままの頬に、本当に少しだけ見えた。
「泰衡さんは、幸せだった?」
真剣な顔をして訊ねてくる。
幸福とは何か、己に問う度に、その答えは決まっていた。奥州を平穏のうちに治めること、さらに発展させていくこと、それが泰衡の生き方であり幸福だった。それだけだった。望美と出会い、娶る前まではずっとそう思っていた。
けれど、そうではないものを、見つけている。それを、知った。
「そうだな……きっと、幸せだったのだろう」
志半ばに、死に行くことに悔いがないとは言えない。だが、それでも何故なのか、幸せだったと言えるのだ。
作品名:さようならと告げる鳥の聲が聴こえる 作家名:川村菜桜