月に恋焦がれ
いいから、と掛けられる。長襦袢と裲襠の絹の擦れる音。でも袖を通しても似合うとは言えない。俺なんかより四木さんのほうが似合うはずなのに。
「四木さん」
「私はもう着ませんので。せっかくの水揚げですしね」
ありがとうございます、という言葉は四木さんに遮られる。この着物が似合う頃には一人前の遊女になっているだろうか?今はまだ分からない。
「綺麗な着物だな」
「シズちゃん?」
廊下を歩いていたら呼び止められる。着物を抱えてるせいで分からなかったけど、すぐ後ろまで来ていたらしい。落ちそうになる帯を拾ってくれた。
「水揚げだって」
「そうか」
背も伸びてもう俺が見上げないと目線は合わない。威圧感を出すために髪を金にして色眼鏡をしている。この見世の用心棒にはなった、と聞いたけど腕が立ちすぎて借金が増えている、と四木さんが溜め息混じりに漏らしてるのを聞いた。俺と同じくらいの身長でそんなに力もなくて優しい少年って雰囲気は今はない。大人の男なのだ、俺一人が置いていかれたような気持ちになる。
「無事に終わるといいな」
「それって早く終われってこと?人事だと思ってそんなこと言わないでよ。大体ただの情交なのにしきたりだ何だうるさ……」
その言葉は壁を殴る音で途切れた。穴が開くのと同時にシズちゃんの手に血が滲む。
「うるせぇよ、黙れ」
「何が気に入らないの?」
「何もかもだ。この場所もこの場所にいるお前も何もかも気にいらねぇ。男に抱かれるのが嬉しいとか気持ち悪いこと言ってんじゃねぇ」
手に触れようとして振り払われる。滴る血は床を汚してそれを見た禿が慌てて掃除する。固まる俺を横目に眼鏡の禿は心配そうに見上げてきた。
「甘楽さん?」
「何でもないよ」
分かっていた。こんな日が来ることぐらい。もう子供じゃないし意味は分かっている。笑いあって走り回ってはしゃいでたあの頃の二人じゃないのだ。シズちゃんとは見世の若い衆と遊女。そういう関係。間違ってもそれ以上にはなれないのだ。
「…あんな風に言わなくたっていいのにね」
でもどうしてだろう。どこか胸の奥が痛いなんて。ごめんね、でもそう言われても困るかな?何も言えずシズちゃんにも会えず時だけが過ぎて行く。
「いよいよ明日か」
九十九屋さんから書が来て明日登楼する、と聞いた。それは俺の水揚げが明日ということになる。掛けて置いた裲襠や簪に紅、明日のためにと用意されたものは俺には似合う気がしない。
「……明日が来なければいいのに」
窓際に拠りかかって空を見る。明日からは客も取って稼がなければならない。身体を開いてあられもない声を上げて身体を預ける。逃げたいとか嫌だという感情はなかった。もう諦めに近かったからだろう。
「シズちゃん」
ごめんね、と言いたかったのに。溜め息ばかりが漏れる。窓から外を眺めてもいるはずはないのに。朝の騒がしさで賑わう街。ふと覗き込んだら何かが窓に当たった。
「…あれ?」
拾うとそれは小さな珊瑚玉の付いた簪。安物でこの見世では持っている人間などいないだろう。せいぜい町娘が贅沢に、と買うような物だ。誰が何のために?と外を覗いた。下から走り去る金色の髪。
「あ……」
背中を見ただけで分かる。その背中と何回も鬼ごっこをしたから。走るときの癖は何一つ変わっていない、角を曲がってその背中は消えた。
「ありがとう」
簪を握って目を閉じる。大丈夫、シズちゃんじゃないかもしれないし別人かもしれない。でも大丈夫、ごめんねという言葉は伝わったかもしれないから。
「ねぇ四木さん」
男にしては艶のある、綺麗な黒髪に簪を挿しながら結い上げる。今日は水揚げの日だから今日くらいは髪を結って欲しいという甘楽の希望だった。
「どうした?」
「好きな人いるんですか?」
目を輝かせながら言う言葉。きっとまだこの世界を知らない子供だから仕方ないのだが、やけに重く聞こえた。
「…さぁな」
「あ、いるんでしょ?」
不服そうな声を上げる甘楽にこれ以上聞かれないように話を切った。まだ聞きたそうにはしていたけど、ここで不興を買うような愚かな子供ではないのですぐに話題を変える。そういう機転の効く甘楽はきっといい花魁になれるだろう。どこかでそんな甘楽を気に入ってはいる。
「ねぇ四木さん。これ挿してもいいですか?」
大体結い終わったところで甘楽が簪を出してきた。どこにでも売ってるような小さな石が付いたような安っぽい簪。自分で買ったにしては甘楽が好きそうな細工には見えない。
「こんな安っぽい簪を挿すとか、うちの見世が笑われる」
「分かってます。だから今日だけです」
震える甘楽の手。そうか、だからこの簪なのか。これはきっと言えない事情があるのだろうと口を閉ざした。
「今日だけだからな」
「ありがとうございます」
頭を下げた甘楽は目を伏せる。登り詰める。と息巻いていた頃からは想像も出来ない顔。泣きそうな、でも泣けないといった顔。嫌でも逃げれないし変わらない事実。それは甘楽も分かっているけど、認められない。それは、分かっているのだ。誰もが通る道だから。
「……身体を売るってどんな感じなんですかね?」
「知らない男に股を開いてあられもない姿になる。ただそれだけだ」
どれだけ言い訳してもどれだけ繕っても、根本的には変わらない。金で買われて金で関係を築く。どれだけ言い訳してもその事実は変わらないのだ。
「…汚れるってことですか?」
「いや、違う。夢を見させるってことだ」
「夢?」
不安そうな甘楽の頭を撫でながら、昔部屋付きの姐さんに教わったことを教える。新造のとき、水揚げが決まって同じことを聞いたから。
「汚い俗世を忘れさせて一夜限りの夢を見させるのが仕事だ。金で身体は売っても心は売らない。それがこの街だからな」
「四木さん?」
「年季が明けるまではその簪を握ってたらいい。そうしたら、いつか分かる」
この街は決して綺麗とは言えない。好きな相手がいても叶うはずもない。その事実を知って「あぁこんな汚い世界なのか」と知って絶望する。それは甘楽にも訪れるだろうけど、まだ早い。いつか来るその日までは夢を見てるだけでいいのだ。
「四木さん、俺……」
「何も聞いてなかったことにしてやる。だから、お前も忘れろ」
結い終わって煙管を手に取った。甘楽はもう何も言わずに大人しく座っているだけだった。その言葉の続きは甘楽が本当に言いたい相手にだけ言えばいいのだから。
「四木さん、そろそろ見世の時間です」
「分かった。すぐに行く」
立ち上がると、甘楽も部屋から出るように促す。豪華な裲襠を纏った甘楽は慣れない足取りで一歩ずつ座敷へ向かった。
「甘楽、この簪は?」
「色が綺麗なので」
儀式に近い宴も半ばになって九十九屋さんに髪を触られる。簪を触られて抜かれる。触らないで、と言って不興を買うのも嫌だけど触られたくない。そっと手に触れて簪を直したら九十九屋さんが苦笑いを浮かべた。
「もっといい簪を贈ろう。君にはこんな安っぽい簪よりもいいのがあるよ」
「…ありがとうございます」