月に恋焦がれ
そっと頬に触れられる。そのまま顔を寄せられて唇を吸われた。もう夜五ツに近いのだろう、芸者や禿や新造たちが部屋を後にしていく。残されたということはこれからなのだ。色んな思いで張り裂けそうな胸が痛いと感じた。
「安心しなさい、酷いことはしない」
「……はい」
簪で結われてた髪が落ちる。着物の裾から入ってくる手に身体が竦むけど、九十九屋さんはそれをただ笑って着物をずらしていく。
「お見送りはしなさいと言っていたのに」
起きて来ない甘楽に苦笑いしか出てこない。水揚げも無事に済んで一人前になれた。相手もそれなりに気に入ったのか、満足そうに部屋を後にする。
「なかなか可愛い子じゃないか。男だからと油断させられたね」
「…そう言っていただけて嬉しいですが」
「往年の貴方のようだ」
何かを知っているかのように九十九屋が四木の頬を撫でるのを、四木は困った表情で手を退ける。その様子に九十九屋は冷たいね、と笑った。
「私は遊女じゃないですよ」
「分かってるよ。でも馴染みなんて貴方以来だ」
そうでしたね、と言う四木の言葉通りこの見世の常連の九十九屋は馴染みをつけない。気にいる妓がいないと言ってつけなかったのだ。
「可愛がってあげてください」
「分かってますよ」
廓を後にする九十九屋に頭を下げる。昔はまた来てとか言っていたのにな、と笑うしかなかった。
水揚げが済むと立派な遊女という言葉通りに客を次々取るようになった。男の遊女が珍しいのか客足は絶えずに部屋持ちになり次は座敷を貰うという話まで上がっている。登り詰めないと生きていけないこの街だから、と身体を売ることに抵抗はなかった。
「暇だねぇ」
「今日も見世は忙しくなる」
紅殻格子の向こうに見える空。狭く苦しいと昔から思っていた。格子の隙間から昇る煙みたく出てみたいと昔は思ったものだ。
「売れっ妓なお前から暇だ暇だと聞くとは思わなかったけどな」
窓から空を眺める甘楽は溜め息混じりに着物の裾に入れていた飴を口にする。馴染みの誰かに貰ったのだろう、甘楽はよく飴を舐めていた。
「あ…」
甘楽が見た方向では人が飛ぶ。悲鳴と怒鳴る声にいつものことか、と諦めにも似た言葉が出る。
「やれやれ…また静雄か」
「シズちゃんも飽きないな」
静雄とはうちの男衆の一人で腕が立つから用心棒みたいなこともさせているが、気が短すぎて壊す物の量で減るはずの借金も減らない。そんな静雄のことを聞いて嬉しそうに笑う甘楽は音がする方向をただ見る。小さな頃から廓にいる二人は年代も一緒だからかよくじゃれて喧嘩もしていた。無邪気に笑っていた二人を今でも覚えている。
「甘楽、そろそろ張見世の時間だから仕度しろ」
「はいはい」
飴をもう一粒口に入れて甘楽は立ち上がる。紅い長襦袢を手に奥の部屋に消えたのと同時に俺も部屋から出る。また静雄に小言混じりの説教をするか、と目立つ金髪を探すことにした。
「全く、またどやされる」
喧嘩した見世に向けて詫びの手紙を書くのはもう日常茶飯事だった。男にしては些か柔らか過ぎるとよく言われるから字を書くのは好きじゃない。
「また静雄が喧嘩したんだって?」
「笑い事じゃないですよ。また詫び状を書く身にもなってください」
襖が開いて入ってきたのは、ここの楼主。粋に着物を着こなしては片手に煙管を持っている。その姿はとても遊郭の楼主には見えない。どこかの店の若旦那か商人には見える。
「綺麗な字だな。さすがはこの見世でお職を張っていたことはある」
「昔の話ですよ」
手紙を眺めていたのを読んだのか、それを折って手渡してくる。昔から手紙を書いていたせいか、書くことは嫌いじゃない。そうまじまじと見られるのは好きではないが。
「この手紙で何人が落ちたんだろうな」
「私は筆不精でしたからね」
「よく言うよ。何人もが夢中になったんだろうな」
顎を上げさせられて上を向かされる。そのまま近付いてくる唇を掌で押さえた。
「……女将さんに怒られますよ」
「可愛くないな、昔は口吸いくらいはしてくれたのに」
「昔の話でしょう」
苦笑いを浮かべる人から目を逸らして、煙草盆から煙管を取る。細やかな銀細工に滑らかな木の管。一目でいい物だと分かるこの煙管はもうずっと使っているせいか汚れはそれなりに目立つ。
「それ、まだ持っていたのか?」
「貰い物ですから、捨てられないですよ」
ここに入ったときにこれが吸えるようになったら一人前だと差し出された。最初は意味も分からずに受け取ったけど、後々にこれは立派な物で煙草を吸う物だと理解したのだ。
「また買ってやるのに」
「これが手に馴染んで他のが使えないんですよ。困ったことに」
煙を吐き出して灰を盆に落とす。それだけの仕草が昔は様にならなくて背伸びしているようにしか見えなかった。最初は煙たくて吸えなかったのに、今ではないと落ち着かない。歳を取ったな、と改めて思う。
「そんな古いのでいいのか?」
「これじゃないと吸えないんですよ」
「そうか」
灰を落とす音が重なる。吐いた煙が部屋を漂って二つの煙が交わる。そんな他愛もないことが嬉しいと少し思う。そんな時間を割くように襖が開いた。
「若旦那、目出井組の旦那衆がお待ちです」
「分かった、すぐに行く」
立ち上がると、裾に手を入れて何かを取り出す。色とりどりのおはじきのような物が見える。
「四木、これをやるよ。口寂しいときに舐めたらいい」
「ありがとうございます」
懐紙の上に置かれたのは飴。子供か何かと勘違いしていないだろうか?一つ摘んで口の中に入れた。昔からそうだ。あやすように何かを与えて、決して近付いては来ない。
「……甘い」
「旦那?あ、飴とか懐かしいですねぇ」
再び開いた襖の奥から顔を出してきた男。飴を見るなりすぐ口の中に入れてくる。減った飴に文句を言うこともないだろうと溜め息を漏らした。
「旦那?」
「いや、何でもないですよ」
再び手にした煙管。口の中の飴が溶けたせいで甘ったるかった口内が再び煙で満たされる。
「そういえば、静雄が喧嘩したのは聞きましたか?」
「あぁ。血の気が余ってんな」
「昔の誰かさんそっくりですね」
この男も昔はそれなりに喧嘩をしていた。暴れたと聞くたびに部屋に来て武勇伝を聞かせてくれるものだから退屈ではなかったけども。
「そうかな?俺はあそこまで暴れてないですけどね」
「大人しくなりましたしね」
昔に比べたらずいぶんと大人しくなった。怪我も絶えなかったのに、今では少なくなった。歳を取ったということか、と一人笑う。
「どうしたの?」
「いや、赤林さん良かったら吸いますか?」
「俺はこっちのがいいや」
差し出した煙管。それをやんわりと断ると顔を近づけてくる。そのまま吸われたのは、唇。煙管の味がするねぇと笑う。
「ご馳走様」
離された唇からは飴の味。混じって不思議な味がする、と笑う男の顔が見えなかった。
「…甘いなぁ」
飴を口に含むと広がる甘味。別に好きなわけじゃない、減らないから減らすために舐めているだけ。
「今日は来てくれるかな」