学園小話3
夏
胸が悪いのは、暫くおとなしくしていれば治る。
わかっていたから横になっていたし、部屋に戻ってきた同室者も、一瞥し一言声をかけてきただけて放っていてくれる。
臓腑が内側から押される感覚とでもいえばいいのか。とにかく、気持ちが悪くて……。
吐く。そう思った瞬間、胃からせり上がるものを止められなかった。
「……吐くなら外でしなよ」
床についてえづく傍らで、溜息混じりの声が聞こえる。
それには答えられず、何度も喉を焼くそれにむせ返る。
高く結わった髪が流れ落ちて視界を暗くするその先で、板目に広がる透明な液体。昨日からほとんど水しか飲んでいないのだから、当たり前か。
ひどく冷めた思考に似合わぬ、涙と鼻水とで汚れた顔を上げると、手ぬぐいが差し出される。
「…すまん」
「片付けは自分でしなよ」
また、溜息が重なる。
答えなど求められていないからのろりと座り込んで顔を拭っていれば、足元に雑巾が転がってくる。準備がいいことだ。
吐いたおかげで、気持ち悪さはなくなっている。
このあと暫くは調子がよいのを知っているから、雑巾で床を拭くと汚れた手ぬぐい共々、手に持って立ち上がる。
ちらりと視線が様子を伺うように流れてきて、戻っていく。
今更、どうするのかとか大丈夫だとか問いはしない。もうお互い、慣れたことだ。
「食堂のおばちゃんがさ」
障子戸に手をかけたところで、背後にかかる声。なんだと振り返れば、真剣に踏み鋤の手入れをしている横顔がある。
「味噌汁ぐらい、飲めるようなら飲みに来いって」
この暑い時期、固形物が喉を通らない忍たまも多いのかもしれない。それでは体力を消耗するばかりだから、子供たちの栄養を支えるおばちゃんとしては、あの手この手を考えているのだろう。
もっともこちらは夏バテしているわけではないのだが、理由を説明するのも面倒なので、そういうことにしている。
そうか、と呟くように答え、戸を開ける。
「暑いから、開けっ放しにしといて」
追いかけてくる声に促され、そのまま廊下を歩き出せば、ぬるい風が頬をなぶる。
今年は日照り続きで、どこぞの農村は秋の収穫も厳しかろう。水害よりはましだけれど、それでも似たようなもの。
そうなれば、また――。
ぐらりと揺れる床に、慌てて一歩踏み出す。とっさに壁に手をついたせいで、濡れた手ぬぐいがはらりと落ちる。
「忌々しい、夏めっ」
また胸が悪くなってくる。その前に手ぬぐいと雑巾を洗って、食堂に行って、味噌汁を飲もう。
うるさい蝉の声に追い立てられるように手ぬぐいを拾う。そのまま目の前が暗くなった瞬間、しまったと思ってももう遅い。
重い何かが落ちる音に、手入れの手を止め立ち上がる。
滝夜叉丸本人はわかっていないだろうが、ひどく青白い顔をしていたのだ。予想に難くない。
あんな顔で食堂に行けば、おばちゃんが黙っているはずもない。それに任せるつもりだったが、螺子は先に飛んでしまったらしい。
この夏にかかる季節、毎年、同室者は体調を崩す。夏バテだなどと言っているが、そんな奴は夢でうなされるはずもないだろうに。
一、二年のころは慌てたものだが、三年目にはもう慣れた。
この男の性格だって、もう知れたものだ。廊下に転がる滝夜叉丸を背負い上げると、保健室に向かって歩き出す。
「……今年は、本当に暑い」
少し動いただけで額に滲む汗。保健室まで重いこれを抱えていけば、確実にいい運動だ。
この貸しは大きいよと聞こえぬだろう男に囁けば、小さな呻きが返って来た。