学園小話3
抱擁
「喜八郎」
口に出すと、案外すんなりとした音になった。
「綾部」
一音ずつ、区切るように呟く。その音は、見慣れた天井に吸い込まれては消えていく。
「きはちろう」
喉に手をあてれば、音を紡ぐ度に震える振動が伝わってくる。ここを掻き切れば人は音を出すことができない。
笛はただの管なのに、不思議と妙音を紡ぐ。理屈などなく、ただ人の心を打つ音を出すという一点において、笛と喉とは似ているのかもしれない。
じっと頭上から人の顔を見下ろしている男は、いつものことだが大して表情を変えない。
この男が何を考えているかなんてわかった試しはないし、この先もきっとそうだろう。だから、こちらが思っただけの行動を取るまでだ。
「…そんなに呼ばなくても、聞こえてる」
普段よりも重い右腕を上げ、彼の頬に触れてやる。なすがままに頬を押し付けて、彼は目を閉じる。
腕を上げ続けるのは辛いが、無下にすることもできず溜息をつく。
「喜八郎」
こちらを向けと触れる頬を軽く叩く。ガラス玉のような瞳がなんだと問いかけてくるから、左腕も上げて誘う。
珍しく意味を取り違えない男は、腕の中に納まると、そのまま圧し掛かってくる。もっとも、いつものように全体重を預けることはしてこないが。
柔らかそうに見えて、その実、軋んだ髪を撫でてやる。摺り寄せてくる頬にこちらも軽く肌を寄せる。
「喜八郎」
もう一度名を呼べば、人の身体に回してきた腕が震える。力を入れないのは、こちらの怪我のせいか。
大丈夫だと背を叩く。己は生きているし、声も出る。少し休めば、また元通りだ。
互いの拍動も感じられる距離にあって。己の体温を確認した男は、ようやく小さく呟いた。