学園小話3
見えない壁
それは、無色透明の見えない壁である。
ある一定の距離から先、彼らの傍へ誰も近寄せないための、見えない檻。
その見えぬものに手をかけて、こちらは溜息とともにあちらの風景を見ているしかないのだ。
それは、最初からわかっていたことであり、今更嘆いてみたところで仕方がない。
六年ろ組が演習から帰ってきたという話は、気をつけなくても簡単に耳に入ってくる。
委員長が在籍している組なのだから、当然だ。
彼が不在の間の連絡もあるし、なにより報告は忍にとって第一の義務。授業が終わって、早々に彼らの私生活の場である長屋に向かう。
大変な演習になるとは最初から聞いていたし、戻ってきてもすぐに日常生活に戻れるとも思っていない。
だから、明日いっぱいで提出の体育委員会の書類は最初から滝夜叉丸のところに回ってきたし、それはすでに完璧に仕上がっている。
戻ったのならば、一応は目を通してもらうべきだと手にした書類。それが皺になるとわかっていても、拳に力が入ることに泣きたくなる。
障子戸を隔てた向こうから聞こえる、押し殺した息遣い。
それがどういうものかわからないほど幼くはないし、そういうことをする心理だって知っている。
特に演習を終えて帰ってきたというのならば、普段のタガが外れたって仕方ないことだろう。
殺しきれない、色を含んだ声が耳を打つ。
外に人がいることを知った上で止まらないその欲は、けっして外には向くことはない。
息を飲んで、互いの熱を喰らいあいながら餓えを満たそうとする。そこに二人以外の他者はいない。
薄い戸で区切られた、小さな世界。
彼らが招いてくれなければ、決して入ることの出来ないそれは箱庭の中の箱庭。
こぼれた溜息は意外と大きくて、しまったと思うが、それも今更。何事もなかったように踵を返す。
走り出さないのは、悔しさと諦めとが入り混じった矜持のせいで、泣きたい気もすれば叫びたい気もする。
でもなにをしたってあの檻の中には入れない。
「……あれ、滝夜叉丸?」
角を曲がったところで、ぶつかりそうになった人が慌てて一歩下がってくれる。見上げれば、穏やかな笑顔がそこにある。
「不破先輩」
「君も書類を見せに? 先輩方はいらしたかな」
図書委員会も体育委員会と同じだったのだろう。雷蔵が書類を手に笑いかけてくる。
思わずその胸に抱きついて、そのまま押し返す。今はあまり誰の顔も見たくない。
「た、滝夜叉丸?」
「…………明日の提出前に、見せれば間に合います。今夜は、無理です。行っては、いけません」
何事かと動揺する人を無視して告げれば、しばしの無言の後、察したように肩が揺れる。
そうしてぽんと肩に手を置かれるから、頷きを返す。
「行かないであげて、ください」
繰り返す言葉は、己の声ながらひどく淡々と響く。
「うん。……朝食の前に、お渡ししに行くよ」
それに頷いた人は、ただね、と呟くと、穏やかな顔に同情の色を浮かべて顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?」
無駄な言葉はなにひとつない。ただ、代わりに嫌というほど現実を突きつけてくる。
何も言えなくて、言えば何かが溢れそうで、たまらず一礼すると走り出した。
***
乱暴に障子戸を開けると、そのまま返す手で勢いよく閉める。
木を打つ音が響いて、部屋にいた喜八郎が驚いた顔でこちらを見る。
普段ならば己が注意する行為だ。物言いたげな喜八郎の顔を無視して、その背中にもたれかかる。
「……重いよ」
「うるさい…っ」
圧し掛かったまま天を仰げば見慣れた天井のシミすら汚く見える。
泣きたいと思ったときには、もう涙が溢れていた。
背中が揺れたかと思うと、握り締めた書類にひんやりとした指が触れる。
促されるままに手を放せば、溜息の振動が伝わってくる。
「確認してもらいに行ったにしては、早かったね」
そう言いながら前に身体を動かすものだから、支えが無くなる身体は、ずるりと床に落ちる。
両手で顔を覆っても、溢れる涙はバレバレだろう。
どうせこの部屋には喜八郎しかない。ここもひとつの小さな檻。
目が熱くて喉が苦しくても、ここでしか泣けない男の髪を、喜八郎はただ黙って撫でてくれる。
「……馬鹿な滝夜叉丸」
「うる、さい…っ」
だというのに、今日に限って嫌な言葉を投げてくる。片手で追い払えば手首を掴まれ、もう片手すら掴んでくる。
見られたくないことを一番知っているくせに、見せろというその暴挙。
嫌だと首を振れば、見慣れた顔は簡単に近づいてきて、温いものが頬と瞼を舐めあげる。
「しょっぱいね」
「………阿呆か」
止まらぬそれを犬のように舐めて、顔中を涙と唾液で染めていく。
それは傷を舐める行為と似ているし、実際そうなのだろう。でも、そんな行為で癒されるようなものは最初から持ち合わせていない。
「……止めろ、喜八郎。それよりも、胸を、貸せ」
「胸だけでいいの?」
暗に肌も貸そうかという言葉。一瞬、頷きかけて首を振る。それは、あの人たちの行為と似て、ただあの時を思い出す。
それはひどく胸をえぐるから。
「私は……」
穴掘りで鍛えた腕が背中に回され、軽々と人の身体を抱え起こす。
その腕の中に顔を埋めると、また涙がこぼれた。