【ＧＡＮＴＺ】抱擁と祈り【加藤兄弟】
静かで心地よい夜など、ほとんど久しぶりだった。
あの家に居たころは、どこにいても乱暴な足音、がさつな笑い声、罵倒がこぞって歩を追い立てた。眼を覚まして最初に悟るのは痛いほどの疎外感で、夜に眼を閉ざして震える頃には、茫洋とした孤独の心地で胸が冷たかった。
玄関の薄い壁の向こうで車が轟々と走っている。隣の部屋ではテレビかラジオでも聞いているのか、くぐもった大勢の笑い声と明るい音楽が響いてくる。こっそり寝返りをうって横を見ると、天井を向いて眼を閉じた兄の姿が黒い陽炎のようにぼんやり浮かんでいる。自分よりずっと大きな兄。呼吸に合わせて上下する掛け布団。
兄の発する一つ一つの存在感を数えて、しばらく歩は幸福な心地に酔っていた。しかしその喜びが膨らめば膨らむほど、先の何気ない戯れを思い起こすほど、歩は次第に息も瞬きも堪えて、湧き上がる焦燥感を胸に押さえ込まなければならなくなった。
何かが…恐ろしい。
優しかったはずの静かな闇が、静謐なまま兄を狙う邪悪な何かに姿を変えて、兄に覆いかぶさっているようで、そういえば、あの日兄が居なくなったのも、こんな風に二人で布団を並べて眠った夜だと歩ははっと思い出した。
華奢な歯を噛み合わせる。唾を飲み、パジャマの胸元を破らんばかりに握り締めた。力の篭りすぎる全身の関節が白く痛む。
歩は目を瞑り眠ってしまおうとした。眠ってしまえば、明日が来る。
眼が覚めたらおはようと言って、兄が作ってくれる少し焦げた目玉焼きを食べて、いや、自分が先に起きて最近作れるようになったスクランブルエッグを披露するのもいい、何でもいい、とにかく明日は兄と一緒に出かける。明日と、兄が言ったのだ。
兄と一緒に居られる。
本当に？
歩の不安がぽつりと疑念を囁いた。
本当に、兄は、明日もそこに居るのか。
歩は諦めて目を開いた。兄は勿論さっきまでと同じ体勢で、隣に居る。歩は長く口の中で戸惑ってから、兄ちゃん、と呼んだ。返事を期待しない小さな声だった。
「なんだよ」
驚いて歩は唇を引き締める。捉えどころの無い不安に怯えている自分に気づかれた気がして恥ずかしくなる。これから何をしたいのか、自分でも解らないまま動揺する歩に代わって、本能は素直だった。
「そっちいってもいい？」
「え」
兄が首だけ振り向く。歩は頬が熱くなるのを感じた。赤ん坊じゃねーンだから、とでも笑われると思った。
暗闇で曖昧になっている兄の輪郭はちっとも笑っていなかった。
驚きの声の後に生まれた短い沈黙には、深く思案しているような、何事かに想いを馳せているような、切迫した感情の漣が窺える。それが静かであればあるほど、歩の焦燥は増していく。
やがて兄はもぞもぞと歩に背を向け、いいぜ、と言った。
歩は喉奥に詰め込んでいた息をゆっくり細く吐き出して、吐き尽くしてから、そろそろと膝を擦って、自分の布団から這い出した。 無言で待っていてくれる兄のうなじを四足で見下ろし、歩はかすかな逡巡を覚える。意を決して兄の掛け布団を小さくめくると、猫の子のしなやかさでその隙間に滑り込んだ。
そっと掌で触れた背は広い。自分よりずっと大きな兄。いつか自分も、なれるだろうか、こんな風に大きく、どんなものでも背負える背を持つ、この兄のように。兄を見上げながらいつも思うことだった。
背の真ん中に額を押し当てて眼を閉じる。逞しい筋肉の先で、暖かい鼓動が息づいている。もっとしっかり聞きたくて、細い足で頑強な腰を捕まえ、腕を脇の下に通し、ぎゅっと抱きついた。
腕も足も十分に回りきらず、抱きつくというよりしがみついている形だ。指先までめいっぱい力を込めて、兄の服を握る。
途端、歩のきつく閉じた目からうっすらと涙が滲んだ。わけがわからなくなる。
（たまに兄ちゃん……なんか…いなくなるじゃん）
（そッ……そうか？）
（俺…本気で働くから…置いていかないでくれよな…）
（ばッ、ばかッ、働かなくても連れてくっつの）
そう言って、兄は消えた。
力を込めすぎた手が汗で痺れ、外れかけ、慌てて抱きつきなおす。やはり、兄の広い胸に歩の腕は短すぎる。その事実が様々な揶揄を伴って歩を打ちのめす。
兄が傍にいても繋ぎとめられない自分の小ささ。不安を形に出来ない自分の幼さ。どうか二度と、兄を奪わないで。そうやって不確かな絶対的な存在に祈るしかない自分の弱さ。何もかもが足りない。置いていかないでと訴えるだけでは足りない。なのにそれが、今の歩の姿だ。
ひりつく喉を痙攣させながら、兄のシャツに顔を押し付ける。わずかな涙の冷たさが兄の高い体温を濁らせていく。
歩の抱擁に沈黙している兄の背筋がじわじわと緊張する。
歩がひっそり泣いていると知り、そうさせているのが自分だと知っているのだ。そして、兄には歩の慟哭を、深い絶望を止められない、それを、歩も兄も、知っていた。歩が兄の非在を確信していたのと同じ類の、根拠の無い真実だった。
（兄ちゃんはまた行っちゃうんだろ。だからこうしてても、なんも言ってくれないんだ。あの時、嘘ついたから。連れてくって言ッてくれたけど、ほんとは、兄ちゃんは俺を連れてけないんだ。わかんないけど、そうなんだろ）
歩はもう泣いていなかった。兄に触れている歩の全てに、理解の生んだ寂しい諦めが漂っている。
一度味わった恐怖の苦味は余りに濃厚だった。吐き戻そうにも喉や胸を焼いて剥がれない。嘔吐きながら身を震わせて、苦痛と生きていくほか無かった。焦がれた膚には無残な痕と痛みの記憶が刻まれ、歩の脳裏から消えない。
歩は思う。今度同じ悲劇を背負わされたら、きっともう立ち上がれない。
「どうすれば、兄ちゃんと同じとこに行ける…？」
兄の全身が一瞬で強張る。凶暴とさえ称せるほどの怯え、戦慄。歩は自分の勘が正しいと悟る。疑いようの無い兄の親愛が、歩を拒絶している。愛ゆえの非道に駄々をこねるほど、歩は愚かでも幼くもなかった。
何も言えなくなった歩は、兄の背にぐりぐりと頭を擦り付け、せめてもの非難を表した。そして我侭な指を叱咤し、くしゃくしゃにしてしまった兄のトレーナーを解放する。
作品名：【ＧＡＮＴＺ】抱擁と祈り【加藤兄弟】 作家名：satou