砂漠の蒼
そういえば昨夜はどうしたんだろうか。二人が寝る分には十分すぎるほど大きなベッドとはいえ、カティスと同じベッドに放り込まれたのだ。ルヴァは酷く恐縮したが、カティスが有無を言わさなかったのだ。本を取り上げられて、照明を小さなものに抑えた。薄暗い部屋の中でカティスと取り留めないことを話していたようだが、もう覚えていなかった。でもとてもいい時間だったように思う。穏やかで、温かくて、優しい。
「さぁ、そろそろ起きてくれ。可愛いお前さんの寝顔も見ていたいが、太陽は待ってはくれないからな」
「な、なんて事いうんですか~」
朝からからかわないで欲しい。顔を見られないように、もぞもぞとシーツに包まる。まだシーツは体温を吸って人肌の温度を保ったままだ。心地よい温かさに誘われてまたうとうとしはじめると、頭上からカティスの優しい声が降る。
「洗面台で顔洗って、支度ができたら玄関までおいで」
全て見透かされている。観念したようにルヴァはシーツから顔だけを器用に覗かせた。
玄関に向かうとカティスと、何人かの従者がいた。外には何か大きなものの気配がする。
「あ、馬?」
「そうだ。よくわかったな。乗れるか」
扉を開けると、ブルンッと鼻を鳴らした栗色の毛並みの美しい馬が三頭、並んでいた。
「あ、あの、私は…馬には」
乗れません、とだんだん小声になりながらルヴァは言った。確かにきれいだ。触ればしっとりとしていて上質のベルベットを思わせる。気持ちがいい。ぴんと立った耳、大きな瞳。まつげも長くて、優しい顔をしている。可愛い…のだろうけれども、どうしてもルヴァ自身よりも大きい。ルヴァの背丈よりも高いところに馬の背中はあった。それに故郷では馬はいたことにはいたが、自分が乗ることはまずなかった。正直恐怖心の方が強い。
「……い…」
おびえるルヴァの様子をわき目にカティスは従者へ指示を出した。
「じゃあお前達、先に行ってくれるか。俺はルヴァと一緒に後から向かうよ。…あぁ、悪いな」
従者達は大きな籠を重ねていくつか抱えて持っていった。バラを摘むのだ。きっとバラ園に行けばもっとたくさんの人数がいるに違いない。
「バラ園は遠いのですか」
「うん。一応東の庭と続いてはいるんだが。それよりももっと奥の谷になっているところの方がきれいなんだよ」
カティスの馬なのだろう。一頭だけおとなしく待っている馬がいた。先に乗るからちょっと待ってなと言い、カティスは掛け声を上げて左足を鐙にかけて右足を大きくあげて勢いよく跨った。あまりの華麗さに声もなく見ほれていると、馬上からカティスが腕を伸ばした。
「ルヴァ」
ルヴァが戸惑っていると、大丈夫だから、ともう少し前に腕を伸ばされた。ルヴァ、と
もう一度名前を呼ばれて、ようやく決心する。
「は、はい…」
おそるおそる、女中が用意してくれた踏み台に足をかけて、カティスの手をルヴァは握った。
馬は初めてのようだったから、走らせることはせずに、ゆっくりと歩かせた。最初は怯えていたルヴァだが、馬の持つ温度にも歩くリズムにも段々と慣れてきたようだった。慣れてしまえば周りを見る余裕も生まれる。最初は馬ではなく、カティスの胸にしがみついていたルヴァだったが、今は自然と馬の首筋を撫でるようになっていた。目線の高さも、普段と違う景色に見えるのか楽しんでいるようだった。バラ園はそう遠くない。庭自体は繋がっているが、バラ園に繋がる場所は庭といってもほとんどカティスの趣味している菜園だ。ならば少し遠回りでも迂回した方がバラ園は近かったのだ。今日はバラ摘みが行われる日だという。
日の出まであと少し。強い光さえないが、あたりはうっすらと明るくなり始めていた。
「わ…あ…。すごいです。カティス!!あんなに奥まで…!」
ようやくバラ園全体が眺めることが出来る小高い丘の上まで来た。少しずつ谷が近づくに連れて、香りが強くなってくるような気さえした。木々の間にバラを摘む何人かの姿が見える。
「さぁ、もう少しだ」
そう言うとカティスは馬の腹を軽く、蹴った。
「すごい…素敵です。カティス」
「だろう?だから見せたかったんだ、お前に」
先ほどから何度もすごいすごいと繰り返すルヴァを馬上に残して、カティスは馬を下りた。近くの適当な木の幹に紐をくくりつける。
「これはな、今の次期にしか咲かないんだ」
馬上からゆっくりとルヴァを下ろしてやりながら辺りを見回した。辺りはバラの香りが立ち込めていた。だがむせ返るようなものではなく、優しい、穏やかにさせる、それでいて濃厚な、蜂蜜に近いような香りだ。
「いつも花瓶に刺さったのや、庭園で十分に手入れされたものしか知りませんでしたから。本来はこんなに美しいのですね。うん…美しい…ちょっと違いますかね。愛らしい…?なんだか私が知っているバラとはずいぶん違うようです。私が知っているのは、もっと大振りで、ツンツンしてて、自己主張の強い感じがします。ねえカティス、これは一体なんですか?」
少しはしゃいだ様子でルヴァは先へ先へとバラの小道を進んでいく。
「お、よく見ているな。さすが地の守護聖だな」
バラの丈はルヴァの背を少し超えるくらいで、カティスからはルヴァのトレードマークの白いターバンがチラチラとバラの葉の陰から見えているだけだった。
確かに、ここに生えているバラは品種としては観賞用というより何かに加工して使われることが多いものだった。いわゆるオールドローズと呼ばれるもので、ルヴァが指摘したとおり、花は小ぶりで、八重咲きといった特徴を持ち、花びらもよく庭園にあるような豪奢に巻いてあるものではなかった。花びらも小さく丸かった。それでもこの素朴な魅力を愛でるものは多い。ルヴァの言うとおり、美しいというより、愛らしい、といった方がしっくりくるような花だった。
「カティス、」
はぁ、と上気させて、カティスのところに駆けてきた。嬉しそうな顔をして。ルヴァの頬もばら色に染まっていた。従者からはさみを借りたのだろう、手にはもういくつかのバラが握られていた。
あぁ、この子はこんな表情も出来るのだ。思ったとおりだ、とカティスは確信めいた気持ちを抱いた。この子には、もっと外の世界に出てきてもらいたい。本も知識も大事だが、こうして自身の手で触って、感じて欲しい。それから聞くんだ。どうだった?って。ルヴァ、お前はどう感じたんだ?それでどうしたいんだ?お前がなにかを感じてくれるのも嬉しいことだし、それを俺に教えてくれるのも嬉しいことなんだよ。そのことをどうやって伝えたら良いだろう。でも今日のところはルヴァの笑顔を見られた。いつもの、どこか遠慮したような、俯きがちな笑みではなく。あれが歳相当の顔ってものだろう。今のカティスの胸は、こんな些細なことだけでも嬉しいという気持ちでいっぱいだった。
「そうだな…もう少し摘んでいくか」
まだルヴァの腕には抱える余裕がありそうだ。
「お前の屋敷に持って行ってもいいし、ジュリアスやクラヴィスのところに持って行ってもいい」
「ええ。じゃあ、そうしましょうか。ふふ。なんだか楽しくなってきました、摘むの」