大空と明星―1―
しん、と静まり返った森に綱吉の声はよく響いた。気配が震えた。数は3つ。先ほど、獣を相手にしていた時から感じた、人間のそれ。
少しの静寂。がさ、と草が揺れた。姿を現したのは青年だった。紫がかった黒髪を背中ごろまで伸ばした、端正な顔立ちをした青年。年は綱吉より少し下ぐらいだろうか。鋭い目元をより鋭くして綱吉を見つめている。左手には赤い宝石のようなものが光ったブレスレットをして、剣を持っていた。その後ろから遠慮がちに、おずおずと姿を見せたのは桃色の髪のふんわりとした雰囲気の少女と、オールバックの大きな鞄を持った少年だった。どちらも武器らしいものを所持している。兄弟だろうか。それにしては似ていないなと綱吉は思考の隅で思い、それとは別の言葉を口にした。
「見ていたなら助けてくれてもよかったじゃないかな?」
「良く言うぜ。一人で軽く片付けちまったくせに」
答えたのは青年だった。視線は変わらず綱吉を訝しげに見ている。綱吉はにこりと、ただ人のいい笑みを浮かべた。その顔に青年の顔が一層歪む。
「あんた、どうしてこの森に来た? いつからいた?」
「さっき……かな。どうしてって言うのは答えられないけど」
「なんで」
「俺にもわからないから」
はぁ?と青年は歪んだ顔をまた歪めた。何言ってんだこいつ。そういう顔だ。その気持ちはわからなくない。綱吉も自分がもし青年の立場だったら間違いなくそう思っている。
「えっと、どうしてこの森に来たのかわからない……ってこと?」
次に口を開いたのは少年だった。年は十代前半くらいの活発そうな少年。青年の影からこそこそとこちらを窺うように顔をだしている。おそらく気が小さいのだろう。まるで昔の自分を見ているみたいで、心の中で苦笑しながら綱吉は頷いた。
「わからないって……。呪いの森になんの目的もなく入るなんて……。魔導器だって持ってないのに…」
「呪いの森?」
「このクオイ森の通称だよ」
「クオイ……。それがこの森の名前なんだね?」
「……知らなかったのか?」
「聞いたこともないよ。あと、ブラスティア、だっけ? それは何? ないとなにか困るのかな?」
綱吉の言葉に3人は顔を見合わせた。どうやら自分は相当おかしなことを言っているらしい。綱吉は口に手を当て考え込む。クオイだなんて森も地名も聞いたことがない。呪いの森という通称がつくくらいだ。そんな穏やかでない森の存在を知らないのが逆におかしい。それとブラスティアとは一体なんなんだ。新しい匣兵器か何かだろうか? それだけじゃない。目の前の3人の身なりもおかしかった。服もそうだが武器を何食わぬ顔で所持しているところもそうだ。けれど彼らは自分と同類―――マフィアではないだろう。そんな感じが全くと言っていいほどしない。
それに、彼らの身なりはおかしいけれど、どこか慣れ親しんだ雰囲気がある。
そう、例えば、昔自分がよく夢中になっていたロールプレイングゲームのようなファンタジックな―――――。
―――――ゲー、ム?
「もしかして、記憶喪失…?」
「………は?」
桃色の少女が呟いて、思わず綱吉が力の抜けた声を出した。少女はうんうん、と納得したように頷いている。
「きっとそうですよ! 森に入った途端なにかトラブルに巻き込まれて、そのショックで記憶をなくしてしまったんです。だから魔導器のことも忘れちゃったんですよ! そうに違いありません!」
そんな馬鹿な。
「大丈夫ですよ、私たちが来たからもう心配ありません! さぁ、一緒に森を抜けてお医者さんに診てもらいましょう?」
少女が青年の制止の言葉も聞かず、綱吉に駆け寄って両手で彼の手を握った。その真っ直ぐな眼差しに綱吉はぽかんとし、そしてすぐににこりと笑った。
「ありがとう、優しいお嬢さん。一人ではこの森を抜けられなかっただろうから、とても助かるよ」
「や、優しいだなんてそんな……当然のことです……」
少女は恥ずかしそうに顔を赤らめる。根が素直な子なんだろう。人を疑うことを知らない無垢な少女。だからこそ綱吉は少女を憐れみ、そして利用した。
綱吉は彼女の言う通り記憶喪失ではないし、医者に診てもらうようなことなど何もない。けれどおそらく、ここは綱吉の知っている“世界”ではないのだろう。先ほどの獣も、彼らの話も、身なりも、彼の常識とはかけ離れていた。自分の持っている知識など何一つあてにはならないのだろう。だから彼女の言うように記憶喪失であるということにしておけば、後々都合がいいと感じたのだ。
こう言う時、今まで様々なことを―――銃に撃たれても生き返ったりだとか、未来にタイムトラベルしたとか、100年以上も前の過去の出来事を当事者のように知ることができたとか―――体験しておいてよかったと思う。ちょっとやそっとのことでは驚かなくなり、冷静に対処することができるからだ。自分の感覚が麻痺していることを少し問題視しながら、綱吉はやはりにこりと少女に笑いかけた。
そしてその後ろで、鋭く自分を射抜いている青年にも。
「……よろしくね?」
「……………」
「もう、ユーリ! ……すみません、私はエステリーゼっていいます。エステル、って呼んでください」
「エステル」
「はい! ほら、カロル、ユーリ」
急な展開についていけてなかった少年が、少女――エステルに名を呼ばれて弾けたように綱吉に視線を向けた。
「あっ、えっと、僕はカロル!」
「カロル。よろしくね」
「う、うん……」
カロルと名乗った少年に、綱吉は笑って手を差し出す。カロルはその綱吉の柔らかい表情にほっとしてその手を握り返した。
「ユーリ、ほら、ユーリの番ですよ」
ユーリと呼ばれた青年はやはりじとっとした目で綱吉を見ていたが、ひとつ瞬きをしたかと思うと、その強張った表情を崩して、ひとつ息を吐いた。
「……まぁ、見るからにワケあり、って感じだしな」
そう呟くと、彼はユーリだ、と名乗った。綱吉がユーリ、と反芻する。手を差し出して同じように握手をした。ぎこちない握手だった。
なるほど彼はこの少女や少年とは違うようだと綱吉は思った。それでも綱吉は笑顔を崩さないまま、よろしくと言った。青年もああ、と返す。彼は要注意だな、という考えは心の中に閉じ込めた。
「あ、そういえば貴方の名前は…?」
「ああ……」
そうか、名前。自分は記憶喪失ということになってるし、名前だけ知ってるって言うのも変じゃないか?
そもそもここで日本名は通用するのだろうか。けれど別の名前で呼ばれるなんて変な感じがする。
うーん、と悩み、そして結論――ちなみにその時間わずか3秒――を出した。
「ツナでいいよ」
「ツナ?」
「うん、なんか食べたいなって思ったから、それで」
駄目? と首を傾げると、エステルはいいですね!と笑い、カロルはあはは……と乾いた笑いをし、ユーリは変な奴。とやはりどこか訝しげに綱吉を睨んだ。