ノースキャロライナ
急に視界のすぐ先へ見慣れた水谷のスニーカーが入った。あいつはいつの間に近づいてきたんだろう。ってそれはありえないか。栄口はずっと下を向いていたので、歩みを止めた水谷に自分が追いついただけだと気づくまで少し時間がかかった。
目的地に着いたのだろうかと辺りを見回したが、そこは本屋で、立ち寄った学生らが無理に突っ込んだ自転車でひときわ道が狭くなっていた。自分はここに用はないが、水谷は何かあるのだろうか。
だが水谷は店内へ入ろうとはしない。敷き詰められたタイル状の路面へまるで根でも生やしたかのように足を離そうとせず、肩から吊り下げられた両腕、軽く開いた手のひらが黒いズボンの脇でじわじわ揺れていた。明らかに水谷の様子はおかしいが、栄口はこの期に及んで何となく声がかけづらかった。また拒否されるのはまっぴらだった。でももしかしたら急に気分が悪くなったとかかもしれない、それを見過ごすのは忍びない。ようやく栄口がそれらしい理由を自分へ与え、口を開こうとしたときだった。
「水谷!」
自分の『み』が突然前方から発せられた声に被った。
「マチダ」
ぎゅっと水谷の指先がまとまって握りこぶしになった。曲がった関節がその握力の強さを物語る。横からちらりと盗み見た水谷の瞳はどこか思い詰めた様子だった。その事実に自分なんかが触れてはいけないようですぐ栄口は顔を背けた。
「ひっさしぶりー」
「……超久しぶりだなー」
握りこぶしは隠されるようにするりとポケットの中へ入った。水谷と談笑する「マチダ」と呼ばれた男子が身にまとっている制服は駅向こうの高校のものだ。栄口の中学からも何人かが進学している。ということはおそらく水谷と同じ中学だったの人なのだろう。
だいたい水谷と同じくらいの身長をしたマチダが栄口へ目を向け、「友達?」と尋ねたが、水谷は「野球部のやつ」と微妙に差別するような言い方をした。
「水谷まだ野球やってんだ」
「やってるやってる」
「また外野だろ」
「げっ、何でわかるんだ!」
だはははは、というでかい笑い声に当てられると、昔この二人がどれだけ仲が良かったか何となくわかる気がした。笑いのテンションが似ている。
マチダがはっと思い出したように「お前中学のころ『エルアールエル』って言われてなかったけ」と指差すと、慌てて水谷が「んなの忘れろよ!」と相手を小突いた。一瞬何のことか栄口にはわからなかったが、マチダが「ライトでエラーしてまたレフトに戻されたんだよな」と言ったので、その妙なあだ名が野球のポジションのイニシャルだと思い当たった。
「なんで覚えてるんだよぉ」
「こいつのこと『エルアールエル』って呼んでいいから」
「うわ、長ぇ〜」
「言うなよ栄口! 絶対言うなよ!」
さらっと会話へ混ぜてくれるあたり、マチダはなかなかいい奴だ。水谷の友達っぽいカラっとした性格だなぁ。二人のやり取りを見て、栄口はそんな印象を受けた。
「今度みんなで遊ぼうぜ」
「オッケ、みんなに言っとくわ」
じゃーなー、と手を振り、マチダは自転車に乗って駅のほうへ去った。それでこの場はおしまいで、栄口は水谷がまた歩き出すと思っていたのだ。
しかし水谷は動かない。地面に下ろした脚はさっきより硬度が増しているようにも見受けられる。ポケットへ突っ込んだ手もそのままだった。また知り合いでもいるのだろうかと思ったがその気配もなく、水谷は棒のように本屋の前に突っ立っている。さっきマチダと喋っているときはあんなに元気だったのにおかしい、本当に具合でも悪いのか、と栄口が横を見遣る。