ノースキャロライナ
水谷の瞳は焦点が合っておらず、ただ虚ろで、最後に発した言葉のまま口が半開きだった。
「……水谷?」
そういえば相手の前で名前を呼ぶことなんてあれ以来なかった。不思議な感じがする。
栄口の声に反応して水谷の目に生気が戻ったが、相変わらず目線はどこか遠くにあった。
「オレあいつの前でちゃんと話せてた?」
「えっ?」
「ちゃんと笑えてた?」
あいつって誰だ、マチダか。さっきの水谷とマチダのやりとりにどこか不審な点などあっただろうか、正直わからない。普通の仲の良い友達同士の会話だった。何かあったとしてもマチダと自分は初対面だからそんなの気づきやしない。
「……普通だったと思うけど」
「そっか」
ぼそりと返事をもらった瞬間、栄口は立ち尽くす水谷の頬へ涙がひとつこぼれるのを見てしまった。何の前触れもなかったからぎょっとした表情を隠せなかった。
あまりに相手がひどい顔をして見つめてくるから何かあるのかと思ったのだろう、水谷の指先が水滴の這う頬をなぞる。
「え、え、うわ」
濡れた感触に気づいたらもう涙は止まらなくなった。水谷の目尻に水滴が溜まり、あふれてどんどん頬へ伝う。水谷は泣いているというよりはただ、涙を流しているみたいだった。そこに情念はなく、ひざ下を叩けば勝手に脚が上がるように、生き物として普通の生理反応を起こしているだけに思えた。
だから涙の止め方もわからないのだろう。混乱した水谷はおろおろとするばかりで、事態を収束するところまで頭が回っていなさそうだった。しかし栄口だって相当参っている。好きな人が目の前で理由もなく涙で顔をどろどろにしているのだ。こんな場面に出くわしたことなんて今まで無い。
本屋の自動ドアが開き、同じような高校生数人がざわざわとこちらへやって来るのを察知した栄口はとにかく水谷の手を引いた。男だし、泣いているところを誰かに見られるのはやっぱり嫌だろう。しかし掴んだその腕に全然力が入っていなくて少し不安になる。水谷は本当に大丈夫なのだろうか。
本屋の二軒先にちょうど良くチェーン店のコーヒーショップを見つけた。渡りに船とばかりにすぐさま店へ入り、あまり人のいない二階の窓際の隅っこへ水谷を押し込んだ。
自分は注文のためにもう一度下へ降りる。そこでようやく冷静になれた。オレは困ってる人に弱い。相手がうろたえているのを見てしまうと、さっと自分の混乱が覚めてしまうのだ。
にしてもさっきの行動は要らぬ気遣いだったろうか。でもあのまま本屋の前で泣かせておくのはどうかと思う。でも自分は水谷から嫌われていて、気持ち悪がられているのだ。でも……。
「お召し上がりですか?」
「あ、はい」
手短に注文を済ませ、代金を支払う。トレイに乗せられたいれたてのコーヒーの匂いが香ばしい。お節介かどうかなんて水谷が判断することだ、オレが悩んだって仕方ない。二階への急な階段を慎重にのぼりつつ、答えの無い考え事へ栄口はそんな見切りをつけた。