ノースキャロライナ
昨日、鍵当番の栄口が部室に行くと、みんなもう帰った後だった。いつものにぎやかさが消えた室内は妙に寂しく、栄口も手早く仕事を済ませにかかる。部屋の蛍光灯は最後に消すとして、まずは窓の施錠を確かめ、次に何か不審物がないかぐるりと歩いて調べてみる。
幸い、あらぬ容疑をかけられてしまう要因になりそうなものや、ましてや爆発物などは見つからなかったが、部屋の隅にくたりと紺色のニットが脱ぎ捨てられていた。
栄口がそれを広げ、すぐ水谷のカーディガンだとわかったのは、左袖が少しほつれ、一番下のボタンが取れかかっていたからだった。その状態は服として鬱陶しくないのか、と一度聞いたことがあったが、水谷には水谷のこだわりがあるらしく意にも介していない様子だった。中学からこれだし愛着がある、と言っていたような気もする。
大方練習後、熱の残る身体に着て帰るのが嫌になった水谷が、持って帰るつもりでそのまま忘れて置いていってしまったのだろう。栄口はその情景を安易に想像することができて少し吹き出してしまった。水谷らしい忘れ物だと思った。
水谷の服、水谷へ貸した辞書、水谷がくれた小さな飴、そのどれもが栄口にとっては特別だった。『あいつのもの』というだけで何の変哲も無いただの物体が鍵をかけてしまっておきたい宝物になってしまう。そういうたぐいの、たちの悪い病気にかかっていた。
結局あの飴はとても大事にしていたはずなのに夏場の気温と湿気に耐えられず、小袋の中で中身がどろんと溶けてしまった。
だからなんとなく魔が差したのだった。もうここへ訪れる人はいないという安心感もあった。それでも栄口は戸口を確かめ、用心深く人の存在を窺った。誰もいない。
指先の体温が徐々に水谷のカーディガンへ馴染んでいくのが嫌で、掴んだところから腐るとまでは思わないが、まるで雪のように『あいつのもの』っぽさが溶けてなくなってしまいそうな気がした。
ぎゅっと抱きしめてしまったのは数秒だけだった。そこにはもう温もりは無く、素っ気無く乾いた毛糸の感覚が指へ伝わる。顔を近づけたら淡く水谷の匂いがして、居た堪れなくなってすぐ手を離した。すごく変態っぽいことをしたという実感が首筋を這ってじわじわと思考へ伝わってくる。今オレの顔は真っ赤だ、栄口は床へと散らばったカーディガンの腕に視線を落としながら思い、自分にしてはずいぶん大胆な行為に及んでしまったと反省した。
オレが勝手に好きになったんだから、そのことで水谷の表情を曇らせたくはない、というのが栄口の考えだった。男が男を、なんて未だに自分でも信じられないし、水谷に知られたら絶交ものだとも理解している。もしかしたら相手も自分のことを……という甘い夢は見れなかった。
栄口は日頃から地に足がついた考え方をするほうだったが、恋愛に対してはさらにその傾向が強まる。自分はごくごく平均的、どこにでもいる普通の高校生で、男からも女からも魅力的だと思われるような容姿はしていないと分かりきっていた。身の程知らずにはなりたくなかったし、好きな人に迷惑もかけたくなかった。
床へ落としたカーディガンをもう一度拾い上げ、栄口は結局これをどうするべきかと思い当たった。服が一枚足りないくらい水谷にとっては大して危機的な状況ではないけど、やはり所在を明らかにしておいたほうが要らぬ心配も減るだろう。メールで教えたら親切かもしれない。きっと感謝もされる。「ありがとー」って。それはなんだかすごくいい。他の人からのそれに比べ、水谷から言われる『ありがとう』は心に満ちてくるものが違っていた。好きな人の役に立つのはとても嬉しかった。
予想もせず扉が突然開いた。栄口はびくりと身体を震わせ、すぐに戸口へと目を向けると、もう帰ったはずの水谷が立っていた。ふいに視線がかち合い、反射的に目を逸らす。やましいことをしていたせいか、一瞬だけ確かめることのできた顔がまったく無表情だったせいか。
「あれ? 帰ったんじゃないの?」
「これ水谷のじゃない?」
「忘れ物だろ、ほら」
一言でもいいから何か言えばよかったのに、喉が窮屈で声が出せなかった。
すっかり強張ってしまった栄口をよそに、水谷はその手の内のカーディガンを確認するなり、急に顔をしかめた。無言のまま荒々しく進み、奪い取るように引っ張ると、だらりと袖が宙へ投げ出された。カーディガンの紺色は蛍光灯の下で残像を描き、水谷のズボンの色と同化した。
水谷は言葉を発しようとしない。それが栄口には怖かった。いつもならへらへらと軽口のひとつでも言いながら忘れ物をした自分を嘲っていそうなものなのに、今の水谷はそれをしない。
ようやく栄口が言い訳をしようと口を開いたときには、もう水谷はドアから出る直前だった。すぐに勢い良くドアが叩きつけられ、栄口にはその態度がすべての返事のように思えた。自分は拒絶されたのだった。