ノースキャロライナ
結局答えは出ないまま徹底的に避けられて、部活が終わるころには栄口はすっかり消耗していた。内野と外野、セカンドとレフト、接点が無いといえば無いのだが、水谷は些細な点にまで注意を払い、なるべく自分と関わらないようにしているのが察しのいい栄口にはわかってしまった。
そんなことを思い返しながら着替えをしていると、昨日はただ悲しいと感じるだけだった水谷の態度へだんだんと憤りが募り始めてきた。理由があって避けられるならまだしも、決定的な心当たりがなかった。もしかして何か誤解されているのならそれを解きたい
「やべ、教室に数学の教科書忘れてきた」
鞄の中身を確かめ、ばつの悪そうな顔をした水谷へ花井が「うわ、アホだ」と言う。話を聞いているとどうやら今日は七組へ数学の宿題が大量に出ているらしい。あーあ、と大きくため息を吐き、のろのろとマフラーを巻きつつ、「おつかれっしたー」と水谷は部室から出て行った。
問いただすなら今かもしれない。この時期にこんな遅くまで校内へ残っているのは野球部と受験が近い三年生くらいだろう。その後を追い、栄口もこっそりと部室をあとにした。
一年の教室が並ぶ廊下はやはり誰もおらず、明かりすらついていなかった。廊下の最初と最後、踊り場にのみ輝く蛍光灯を頼りに水谷を探すとあまりの明度の違いに一瞬目がくらんだ。
「水谷」
声をかけられた相手は一度歩みを止めたが、決して振り返ろうとはせず、すぐまた動き出した。水谷の上履きが床を叩く音がさっきより乱暴になった気がして栄口の心が怯む。でもここですごすご帰ったら何も変わらないのだ。意を決した栄口は水谷に続き七組の教室へ入った。
「あの、水谷」
「……何?」
「昨日の」
薄闇の中で電気もつけず、水谷は机をがさがさと探す。
「別にオレ、そういうわけじゃないから」
「言ってることわかんねーし」
水谷の言うことは当然だった。自分はあやふやに何を伝えようとしていたのだろう。君のカーディガンを触っていたのは決してやましい気持ちからではないですよ、とでも訴えたいのか。そしてそれは嘘だった。
「昨日の、わかんなくて」
「……」
「カーディガン、触っちゃいけなかった?」
衝撃音とともに教科書が机へ叩きつけられた。驚いた栄口は反射的に音の主を見たが、水谷はこちらを見るでもなく、ゆらりと佇み、机の辺りをじっと凝視している。昨日より恐ろしかった。水谷の中の暴力的なものすべてが溢れ出しているみたいだった。
「気持ち悪い」
まっすぐに胸へと突き刺さった言葉は正に侮蔑だった。栄口は正しく呼吸ができなくなった。
「ご、めん」
謝って何になるだろう。そんなことは栄口も気づいていたが、自然と喉が声を出していた。投げかけられた水谷の言葉をそのまま飲み込んだらきっと壊れてしまうと、身体が勝手に判断したのかもしれない。
乱暴に教科書を掴み再度手の内へ収めると、戸口に突っ立っていた栄口を押し退け水谷は出て行こうとする。遠くの踊り場の明かりが水谷をぼんやり照らし、そのマフラーの色を正しく映し出す。
「……オレのこと、嫌いだった?」
背中越しなら詰まることなく喋れた。さっきその後ろ姿に話しかけても振り返らなかったから、最初から返事は期待せず、独り言に過ぎなかった。
なのに水谷はこちらを向いた。廊下の奥で冷たく光る蛍光灯を背に、本来の茶色と夜の色が混じってその髪は微妙な色合いになっていた。
「オレのこと好きだった?」
どうして水谷が今にも死にそうな顔でそんなことを尋ねてくるのだろう。
それよりもついに栄口は言葉を失ってしまった。誰にも知られていないはずだったのに、まさか本人に気づかれていたのだろうか。動揺が感情を支配して水谷の質問から逃げられなかった。イエスともノーとも、ましてや論点をずらすような提案もできない。
「……え、ウソ……マジで」
栄口は自分の動揺が水谷へも伝わっていく様子を見てようやく気づいた。水谷の狂言は狂言でしかなかった。本気であんなふざけた質問をしたわけではなく、そこに真意はなかったのだ。
「なんで、どうしてだよ」
「水谷、あのさ」
「ホモは死ね」
言い切ってからものすごく後悔したような顔をしないでくれ、と栄口は思った。水谷の口が一瞬だけ「ごめん」と音なく動いたように見えたのがまた辛かった。踵を返し、廊下の奥へ消えるその姿をただ眺めていた。背中を見つめるというこの行為も水谷にとっては迷惑以外の何物でもないのだろう。
栄口もまた「ホモは死ね」と復唱してみた。静まり返った廊下にぼそぼそと響く自分の声はひどくかすれていた。ずっと探していた自分に対する水谷の認識はそれだった。当たり前すぎてぐうの音も出ない。