ノースキャロライナ
昨日オレは栄口へ「気持ち悪い」と言ったけど、本当に気持ち悪いのは自分のような気がする。猫が尻尾を踏まれたような過剰反応を返す必要はなかった。
あんなふうにカーディガンを手にどうしようって思ってたっけな。今からだいぶ前の、もう考えないようにしよう、思い出さないようにしようと決めたことなのに、不思議だ、記憶はいつも新しく、重ねて後悔を与えてくれる。
水谷は単純に驚いただけだった。カーディガンを持つ栄口が夕暮れの教室の中にいた自分をありありと蘇らせ、昔の行動を塗り替えたくてほとんど本能的に奪い取った。それが何の意味も持たないことを後になって知る。
それからはただ気まずいだけだった。栄口はきっと不審に思って聞きに来る。その理由を自分は言えない。「中学のころ、好きな子が忘れたカーディガンをニヤニヤしてたんだ」なんて打ち明けられるほどプライドも知性も低くなかった。
「オレのこと好きだった?」
『あいつのこと好きだった?』
何故だか同じような台詞が浮かび、ためらうことなくそのまま発した。
一昨日、昨日と感情を支配していたものは嫌悪感、それも過去の自分へのものだった。そんなオレに栄口は巻き添えをくらって自爆してしまった感じだ。少しびっくりしたけれど、本当は気持ち悪いとも死ねとも思っていなかった。気持ちが高ぶっていたときに思いも寄らぬ事実を知って混乱するあまり、逃げるためにひどく突き放しただけだった。
握り締めた自分のカーディガンの袖に汗が滲んでいると気づく。水谷はただ昔の自分を痕跡も残さずめちゃくちゃに踏み潰してしまいたかった。あんなに辛い出来事はもう、あんなに絶望感に浸ることはもう、心が持たない。
ふらりともたれた壁へ耳が当たり、皮膚へ冷気が伝う。栄口は昔のオレじゃないし、どんなに栄口を責め、なじろうとも過去は変えられない。頭ではそうわかっていた。もうすぐ授業が始まるらしく、今から階段を利用する人はいない。
でもどうしてだろう、物を蹴って激しく感情を表した栄口を好ましく思えるのは。自分もそうしたかったのかもしれない。道化だと、気を遣われていたと、手の内で踊らされていたと、すべて公にされて徹底的に打ちのめされたなら前へ進めたのかもしれない。
チャイム音が階段の吹き抜けを巡る。自分の周りはみんな優しい人ばかりで嫌になる。栄口は不躾なオレを殴るくらいしても厭わない。マチダもオレの前でもっと残酷に振舞ってもよかった。オレは、そんな、誰かに気をかけてもらうような価値のある何かじゃ無い。ほてった耳の温度はあんなに冷たかった壁をもうぬるく暖めてしまっていた。