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第８章　ふたりの朝

彼はそれでもその場から動こうとはしなかった。
（緊張しているのかもしれない。久しぶりの帰宅だから）とハリーは思う。

ドラコは、じっと自分の顔ばかりを見ている。
あまりにも涙を流しているので、ハリーは思わず手を伸ばした。

相手は自分が触れたら、ひどく怒るだろう。
本当のドラコは、自分のことを、ずっと嫌っていたからだ。
しかも強引に屋敷から連れ去り、勝手に薬を使って、記憶まですり替えた相手だ。
憎いはずがなかった。

この伸ばした腕はきっと、叩き落とされるにちがいない。
（――だけどいいじゃないか）と、ハリーは思った。

もう僕はこのあと、二度とドラコに触ることが出来ないのだから。
──これで最後だ。

ハリーはゆっくりと、ドラコのほほを流れて落ちている涙の滴をぬぐった。
あたたかくて、柔らかいほほだった。

ドラコは動かなかった。
ただただ彼の瞳は、ハリーだけをじっと見つめ続けている。

「――――僕は素直じゃない」
そう言って、ドラコはそっとハリーの腕をつかんだ。

「僕は意地っ張りで、負けず嫌いだ。ずるくて、相手に思いやりの言葉ひとつも、かけることができない。――本当に僕は出来損ないの人間なんだ」
昇ってきた月明かりを弾いて、彼の瞳からまた涙が零れ落ちる。

「そんなことはないさ。君はとても正直なだけだ。いいところばかりだよ。何も泣くほどのことじゃない」
ハリーはやさしく答えた。

「…………じゃ……ダ……メか？」
ドラコが小さな声でささやいた。

その声があまりにも小さかったので、ハリーは聞き取れない。
相手のほうへ顔を寄せた。

「僕ではダメか、ハリー？僕はプライドが高くて、お礼の言葉ひとつも満足に言えない。馴れ合うことが嫌いで、友達もいない。仲間もいない。誰もいないんだ。僕は自分でも情けないと思うほど、ダメなところばかりだ。だけど、ハリー。僕は君のことが…………」
ハリーの袖をつかんでいるドラコの指先が、緊張でガタガタ震えている。

ドラコは精一杯の決心で告白した。
「僕をひとりにしないでくれ、ハリー……。お願いだから」
震えているドラコはゆっくりと覚悟したように、まばたきをした。


「君のことを……、愛しているんだ、とても――――」


呆然としながら、ハリーは相手を見つめる。
信じられなかった。
なぜ、ドラコがそんなことを言うのか、理解できない。
だってハリーはドラコのことを、ひどく傷つけた相手だったからだ。

まだ少しだけ、以前の記憶が残っているのかもしれない、と思う。
巧妙に摩り替えた、ニセモノの信頼が、彼の中に残っているのかもしれない。

ドラコは、ひどく混乱しているらしい。

ハリーは目を閉じ、深いため息をついた。
めまいがする。
彼はドラコの告白を聞き、この世の終わりのような幸福と、悲しみで胸がいっぱいになった。

（ドラコ……。君はあまりにも一人でがんばってきたから、こんな僕にでもすがってこようとする。君を傷つけることしかしなった、僕でさえ……。本当に君はなんて、かわいそうなんだ……）

「何でも、――――僕が出来ることは何でもするから、いっしょにいて欲しいんだ」
ドラコは言葉を続ける。

きれいで無垢なドラコから告げられる愛の言葉はなんて、素敵なんだろう。
まるで全部が「本当のこと」のように聞こえてくる。

純粋で、とても生き方が下手なドラコ。
――――そしてひどく、さびしがりなんだ。
悲しいくらいに……

彼はとても、弱っていた。
強制的に拉致され、記憶を摩り替えられて、ずっと部屋に閉じ込められてきた。
しかもあれほど毛嫌いしていた大嫌いな相手の恋人にもされて、ひどく混乱しているのだろう。

ドラコは自分が何を言っているのか、きっと分かっていないのだろう。
ただ彼は、自分の中にある言い知れぬ不安を消したくて、ハリーにそう言っているに違いない。

（別にいいじゃないか……）
どこかでズルイ、もう一人の自分の声がした。

(相手の勘違いでも、思い込みでも、それでもいい。ドラコを抱きめてしまえよ。きっと相手は抵抗なんか、しないはずさ)
ひどく甘い誘惑だった。

ハリーは自分の腕の中で震えているドラコを見て、涙ぐみそうになる。
（もう誰でもいいから――）と、ハリーは心の底から思った。

もう誰だっていいから、彼を幸せにしてほしい。
自分よりずっとドラコを大切に思って、幸せにしてくれるのだったら、誰だっていい。

ずっと彼はひとりぽっちでいたんだ。
生き方が下手で、いらない苦労ばかりをしていた。
誰でもいいから、彼を救ってほしい。
もう彼に寂しい思いをさせないで欲しい。

しかし、次の瞬間には、ハリーはまったく別のことを考えていた。

もし、本当にドラコがそんな相手を見つけたら、自分は平気な顔なんか出来ない。
本当の嘘つきなのは、自分のほうだった。

ハリーは嗤った。
自分が偽善者だということは、分かりきっている。
確かに自分はドラコよりずっと嘘つきだ。
嘘つきは昔からだった。
ずっと死ぬまで僕は嘘をつくんだ。
演技をするのは昔から、大得意だった。
いつも叔父夫婦の前では、心にもない笑顔を浮かべて、召使のようにへりくだっていた。
さあ、笑うんだ。
ドラコの前では、下手な笑顔をずっと浮かべていればいい。
泣くのは一人になった、そのときだ。
そのときまで本音を隠して、笑い続けていろ。


「――――きっと今、君はひどく混乱しているだけだ。よく思い出すんだ、ドラコ。君は向こうの人間だし、僕は君と逆の立場に立つ間柄なんだ。うまくいくはずがない。そして君の家はここだ。君が家族を裏切れないことは、分かっているんだ。僕は君をひどい手を使って引き抜いてきた。憎まれることはあっても、許されないことは分かっている。……いいんだからね、ドラコ。君は何も悪くない。君に何の落ち度もないんだ。不安にならなくてもいいよ。さぁ、胸を張って帰ろう。君の帰りをずっと待ち続けている家族のもとへ――――」

ドラコはうつむき、ボロボロ涙をこぼした。
「……ハリー、お前のことが、本当に好きなのに……。やっぱり僕ではダメなんだな。やっと、生まれてはじめて素直になれたのに――――。誰も僕のことなんか、好きになってくれないんだ……」

彼を抱きしめたいと思った。
その思いを受け止めたかった。

幸せがどんなものか、比べれるほど多くのものを、自分は持ち合わせていない。
だけど、今ハリーはすごく幸せだった。
嘘でも混乱からでも、最愛の人が自分のことを好きだと言ってくれている。
これ以上の望みなんかなかった。

あとはもう、彼のこれからを祈るだけだ。
ドラコの幸福は、自分といっしょじゃないことは分かっている。
『敵と味方』
『略奪と強制』
『闇と光』
ふたりの未来は、全てが別々の方向へ向かっている。
そこには、なにひとつ交わるものなどなかった。
「もしも」も「未来」も、そこにはない。