堕落者1
目尻を下げた目の端に、黒猫がいるのを見た。私は足を止める。仔猫だ、この道に。右手に整備された川が流れ、左手に四車線の道路が走り、両手に木々が立ち並ぶ、脇に生える草がところどころ行く手を狭め、道の塗装もなっちゃいない、車がふと横を猛スピードで過ぎる程度の、人気の無いこの場所で、仔猫はしおれた毛を気にも留めず、こちらに横顔を向け、座っている。
いいね、うらやましい。私は猫が大好きで、猫になりたいとは思わないけれど、それと似た存在になりたいとは思えた。自由気ままに振舞って、好んだ場所で昼寝をして、泥水を啜りながら、最後には人知れずひっそりと、一人で死ぬのだ。緩む頬を自覚しながら、私はかわいそうにとうそぶいた。いったい、どこから迷い込んでこんなところへ来てしまったのか。
雨が足元のアスファルトを叩き始める。見上げると、傘のはりが見えて、手元には、振動がリズミカルにやってくる。霧雨の後って、大粒になるものだっけ。傘越しに程度を計ってみる。スカートは濡れてきた。目の前を見ると道はまっすぐ続いていて、先には車のライトが光っている。歩き行けば帰る家はある。私を迎え入れる家族もいる。まだ、家には着きそうにもない。
気付いてみれば、仔猫は随分先を歩いていたので、私もそちらへ向かうことにする。仔猫はその毛を身に張り付かせ、耳も尻尾も疲れ果てて伏している。その様子を眺めて、私は考えあぐねた。
仔猫を捕まえることは出来るだろうか。周りに人がいない今、私がそう行動に移すのは容易く、仔猫を抱えながら、小一時間歩くのも、訳ないことだ。ああ、でも、もしかして制服が汚れてしまったら、その言い訳をどうしようか。いや、捕まえようとして逃げられては、私はもう一度手を伸ばす事をしないだろう。仔猫は歩いているし、私も歩いている。そろそろ、並木に隠れていた信号も見えてくるだろう。しかし、仔猫は歩みを止めた。
仔猫は身を伏せ、左を向く。何か見つけたのだろうか。道路の向こうは、雨音と車のエンジン音が鈍く響いているだけで、奥から建物の影がぼんやりと見える程度だ。耳をピンと立て、動かし始める。まさか、こちらを伺っているのかも。私は諦めるべきなのかもしれない。ここで仔猫を眺める暇は無く、さっさと足を進めるべきで、どうせ家までは遅くとも変わらないが、こんなところで立ち呆けているのはただの阿呆だ。そして、自ら制服を汚そうとするのは以っての他か。
仔猫はどこへいくのだろうか。この雨の中、草影に留まっていればいいものを。親猫はどこだろう。この仔猫は、生きた体を持っていたって、生き抜く方法を知らないだろうに。このままじゃ、仔猫は死んでしまう。この雨、この道、この場所で、仔猫は凍え死んでしまうのだろう。死に場所も選べず、野垂れ死ぬ、誰も知らずに、一匹で。
しかし、私は自然と微笑んだ。その姿にうっとりと見惚れてしまっていた。嫉妬さえ覚える。何故、私は地を踏みしめていて、この先には、帰る家があるのだろう。私の靴はびしょ濡れだ。スカートも濡れて脚に纏わりついている。私は望んでこうなった。私はぼんやりと、目の前に伸びる道を眺める。それに文句を言ったところで、その舗装が所々欠けていたとしても、草むらを歩くよりもこの道を歩くのはよっぽど楽な事で、バスに揺られ、自分の足を拘束されるより、よっぽど楽しいことなのだ。
重く滴る雲の下、頭上だけが雨から逃れ、何やら取り残されてしまった心地でいる。けれど、遠くには建物が多く立ち並んでいるし、近くには草木もある、そして仔猫もいるので、今の感情を一言で言い表すのなら、退屈だった。私というのは、本当におめでたい奴だったのだ。授業のノートも満足に取れず、大好きな絵に向き合うのを恐れていながら、買い与えられた服を着て、作られた料理を食べ、屋根の下でのうのうと過ごしている。これを贅沢と、惚けずに言えるのは私ぐらいだろうと自嘲した。
そうしていたからだろうか、私がそんな人間だったからだろうか、いつのまにか、仔猫は道路へ飛び出してしまって、私の傘がなくなってしまったのは。
私は駆け出していた。
手を差し伸べる先に、二つの黄金を見た、迷わず腕に閉じ込める、足がよろけ、私は座り込み、音が聞こえ、後ろに甲高い、車の悲鳴に、振り返らずとも抱きしめる、訪れるべきものは突然やってくると、どうしてわからなかった、ここは、現を抜かした果てだった、最期の足掻きに目を瞑る。