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堕落者1

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 瞼の裏を、残像が通り過ぎる。幼稚園の頃、私というのは、右腕を二回も折っていた。一回目はどこか段差の上から、二回目は鉄棒から落ちたとはっきり覚えている。痛みは覚えていないが、泣くほど痛かったのを覚えている。確かに私は泣いていた。ある時、母が風邪を引いて、私は泣いていた。母は、こんなことで泣くもんじゃないと言った言葉に、ふと、そんなものかと、その時妙に納得していた。小学校のとき、ある時思い立って、左手で箸を使うようになり、いつしか右手人差し指の骨にヒビをいれたときには、思惑通り左手が役立った。私には家族がいて、母がいて、父がいて、弟がいた。弟は背が高く、体が肥えて大きくて、乱暴者だったが、虫を見れば泣きそうに顔を歪めるほどの臆病者だった。かわいい弟だった。私はきっと、弟が高校生になったって、頭を撫でるだろう。父と母は、そんな私を呆れて見守っているのだ。母は自由奔放で、父は自分勝手な人だった。けれど、私をここまで育ててくれた。私はたまに親と喧嘩して、弟と喧嘩して、ひどい喧嘩をしたこともあって、けれど、家族はいつまで経っても家族だった。私にはいつだって帰れば家族がいた。その幸せは今日終わる、いずれ来るはずだった不幸を知って。
そんな事を、今きっと、考えていた。
驚愕。目を見開く。目の前は影も無く白い。果てには何も見えず、あるのかもわからない。ここはどこ。私は座り込んでいる。ふと手に触れたすべらかな床は、発光しているのか、影は無い。手のひらを眺めてもやはり、影は無い。しかし、不思議とまぶしくはない。目には、ただ白だけが映り、自分の身体すら忘れそうになるほど、何も無い。
私は自分を取り巻くこの状況において、安堵していた。ここにあの道は無い。周りには何も無い。そう、夢だったのだ。全ては悪い夢だったと、私は笑った。笑うと、笑い声が響いて木霊した。だから、余計笑った。すごい夢が見れたと、その達成感に喜んだ。余りに現実に似て、それでいて出来た話だった。下校途中、高校生事故死、土砂降りの中、猫を助けるために飛び出す?その可笑しさにまた笑う。私一人の笑い声が喝采となる。これは、夢のまた夢。
よくある事だった。私の夢はいつも、ちゃんと筋道が通っていて、どこかおかしい。その実、そのおかしさが、少なからず現実に起こりうるものだったりする。だから、夢を見て起きると、しばらく混乱する。どれが現実でどれが夢だろう、と。最後の砦は時計。メール送受信機能付きの、アラーム時計と成り果てた携帯電話を開いて、窓を開けて朝日を確認する。そうして、私は現実に戻ってくる。
本当なら、車が迫るあの瞬間、恐怖で目覚めているはずだった。この空白の夢は何だろう。次の夢への狭間だろうか。夢と自覚する夢は初めてじゃないが、こんなに意識がはっきりしたものは初めてだ。それは、先ほどの夢にもいえる。私の夢にいつもまとわりついていた生温い空気がない。頭のぼんやりする中途半端な息苦しさも。あれだけ平凡を装った非日常を私に演じさせておいて、こんなに気味の悪い仕打ちはないだろう。全ては自分のせいだけれど。
私は寝転がった。そうする事が出来た。気をよくして、何なら寝てみようかと試みる。全てはよくある話、夢の中で眠れば、現実で覚める。
「ん?」
 気配がして目を開くと、目の前には黒い、あの仔猫が浮いていた。
「わーお」
 すぐさま起き上がり、手を広げると、仔猫は大人しく腕へ納まった。さすが、夢。そう確信して、私は息をつく。抱きしめたことも無い猫の感触が、その毛並みのやわらかさや温かさがわかるのは妙だったけれど、傍に何かがいることは私を勇気付けた。
「ねえ、ここ、どこだか知ってる?」
「知っている」
 一驚。低い声がした、手元から。
「しゃべれるの」
「ああ」
さすが、夢?前の夢の役者は出てくるわ、私の腕の中で大人しくしているわ、しかも、言葉を話している。おかしいな、動物の口じゃ、ぜったい言葉を発音する事なんか出来ないのに。
「で、ここどこ?」
 少し笑って尋ねる。仔猫は、その幼い顔に似合わぬ声色で話す。
「わたしの作り出した空間だ」
 次は何を尋ねようかと考える間に、
「だから、ここは夢ではない」
 と言った。
「ええ?」
「あなたは、本当は今、死んでいるはずだった」
 余りのことに言葉を失い、しかし仔猫はしゃべり出す。
「私があなたをここへ連れ出したから、あなたは死ななかった」
「ちょっとまって、ねえ、ここは夢でしょう?」
「夢ではない」
 私は辺りを見回した。天は白く、道は無く、人など元々居なかった。私は改めて自分を振り返る。乾いた制服を着て、背負っていたリュックは無くなり、腕の中には猫がいる。これを夢と言わないのなら、なんと呼ぼう。
「うそ」
「本当だ」
「だって」
 仔猫はその二本の尾を揺らすのだ。
「あなた、猫じゃないもの」
 尻尾は一つで事足りるはずだと、あの道で、何故気付かなかった。
「ああ。人は私を化け物と呼び、俗に猫又と呼ぶ」
猫又。妖怪。長生きをした猫がなる。本当にそうなら納得出来る、彼らは人の言葉を理解し、話せるのだから。しかし、目の前にいるのはまだ額の丸い仔猫なのだ。
「何なの」
 呼ばれているとは、違うと言うこと。
「神の使いだ」
「神の使い!?」
これ以上ない程笑った。死んじゃうと思うぐらい。私はとっくに死んでいるかもしれないのに。そう思うと余計腹が捻れるのだった。猫又は笑っている私をただ見守るだけで、何も言ってこない。私は自然に笑いが収まるのを待つしかなかった。
「神の使いさん、助けてくれてありがとう、私を元の場所に戻してくれる?」
「出来ない」
「なんで?私をここに連れて来れるなら、出来るでしょ?」
「あなたの住んでいた世界は、あなたの世界ではなくなった」
「それってどういう……」
 体が跳ね飛ぶ。床が波打った。舌を噛みそうで、しかし叫ぶ。
「どういうこと!?」
「すまない、維持しきれないようだ」
 視界が揺れる。痛みは無く、衝撃も無く、兆候すら無く、世界は回り、最後には暗転する。
 目が覚めた。
 天上は白かった。そこには電灯があった。しばらく、私はただただ呼吸を整えていた。事故死をしそうになるなんて、世界が終わってしまうなんて、そんな有り得ない不幸が非現実へやって来た。ああ、そうだ、いい夢を見た。夢の中で嫌な思いをすれば、不安に思う心も少しは落ち着くだろうと、そんな情けないことをした。これは、いい事だ。分かりやすい夢で助かった。たかが仔猫を助けるために死ぬだなんて。
作品名:堕落者1 作家名:直美