さとがえり
13
「…!」
鵺野の体温を心地よく感じながらお茶を飲んでいた玉藻が、急に身を震わせた。あまりにもその動きが大きかったので手にした湯飲みの中がすこしこぼれ、指を伝う。
「…どした?」
触れあわせていた肘から伝わる相手の動揺に、一体何事かと鵺野は玉藻の顔をのぞき込む。
「……いえ、ちょっと悪寒が…」
「悪寒?」
湯飲みを受け取る代わりに手ぬぐいを渡しながら、妖狐のくせにその言い様はなんだろうと鵺野は首をひねった。だがいつになく血色の悪い玉藻の表情と、その手のひらで擦っている腕に現れた鳥肌に冗談などではないと気付く。
少し遅れて、鵺野も得体の知れない気配に小さく身ぶるいをする。うぶ毛をちりちりと焼き、背筋を這い上がるざらりとした違和感、威圧感。九尾よりはレベルはずいぶん下だが、似たような圧力のする妖気に戦慄を覚えた。
「なんだ、これ、この感覚…って…?」
いったい何者? と問いかけたその刹那、斜め後ろから女の声が飛び込んできた。
「たーまーちゃーーぁあん!!」
「!!!」
背後からがばりと女に抱きつかれ、玉藻は珍しく面食らっている。
「うふん、久しく会わないうちに綺麗になったわねぇ、玉ちゃん」
「ちょっ…姉上! 昨日会ったばかりじゃないですか!」
「うぅんもおそんな昔のことなんて忘れたわ。それよりもアナタ、お嫁さん連れてきたんでしょ? み・せ・て」
「隠したっても無駄よ、玉藻。わたくし達にはなんでもお見通しなんだから」
何時の間にか、玉藻に抱きつき…もとい擦り寄っている人数が増えていた。玉藻の髪の毛よりわずかに赤みがかった金髪。いや、これは栗毛というのか? とにかく同じ顔が2つ、玉藻の顔を挟んで並んでいる様は余りにも美しすぎて鵺野にとっては目の毒だ。
強いて違いを述べるならば、玉藻の首に腕を回してべったり貼りついている、まるでロックバンドでもやってそうなシルバーアクセにレザーのジャケット&ミニスカが悩ましいおねーさんと、玉藻の胸板に手を添え頬を寄せしなだれかかっている良家のお嬢様風なブラウスにフレアスカートのおねえさん、というところくらいか。
「…お見通しなら、わざわざ見に来ずともよいでしょうに」
「だってぇ、九尾さまのお許しまで貰ったって言うじゃなぁい? どんな美人なのか気になるもの。この目で見てみなきゃ落ち着かないわ」
ミニスカの姉は仮にも弟相手に、まるで年下の恋人でも相手にしているかのような甘ったるさで玉藻の頬にくちびるを寄せ、睦言を囁くように喋る。言外に自分達よりも美人でなければ承知しないという雰囲気が痛いほど伝わる。もう一人の姉は見た目通りに大人しく淑やかだ。けれど控えめとはいえ寄り添う構図にあまり違いは見られない。
そんな双方向からの攻撃に、玉藻は少し苦しそうだ。
「こらこら。二葉(ふたば)に三葉(みつば)、いい加減に放してあげなさい。玉藻が困ってるでしょ」
「「…はあい、とうさま」」
切り分けた抹茶入りカステラと、コーヒーカップが乗ったお盆を手に戻った青柳が楽しそうな声音でたしなめると、二人の美しい姉たちはしぶしぶといった様子で引き下がった。
父と息子、そして姉たち。
妖狐という割には、ぱっと見には生活習慣や文化、制度的なものもまるで人間界と変わらないものだな、と鵺野は観察していた。
後で分かったことだが、人に禍をもたらすため人の世に溶け込むため、高位の狐はあえて『家庭』を持つことになっているらしい。つまり「家庭を持っている」ことは高位である証、妖狐たる者の勤めというものだという。「ごっこ遊び」の延長であるかもしれないが、人間である鵺野には分からない。
しかし、鵺野がぼんやりと呑気に物思いにふけっていられたのはここまでだった。
「それからね、二人とも。玉藻のお嫁さんはそこにいるんだけど? さっきから逃げも隠れもしないでね」
青柳の指のさきはまっすぐ鵺野の方に向かっている。その途端、二つのそっくりな顔が鵺野を見る。美しい眼差しが突き刺さるようだ。
急に矛先を向けられ、近づいてくる二つの顔に、ああほんとに双子なんだ、どっちがどっちか全然分からないな、とか、この際どうでも良いような事を鵺野は思っていた。
「まちがってたら御免なさい。あなた、人間…、よね?」
至極真顔で片方―お嬢様っぽい姉から問われる。
「は、はははい、それはもう生まれてこの方ずっと」
もう片方の姉は鵺野に視線を合わせたまま「玉ちゃん……あなた趣味変わったわねえ」と、のたまった。「前はどっちかといったらひたすら従順な、大人しいタイプを選んでたのに」「昔は物静かな女の方がいいって言ってたし」
はあ、と二人して同時にため息をつく。目と鼻の先でとても残念そうな反応をされて、鵺野はなんとなく申し訳なさを感じてただ身体を縮こまらせた。
「…不細工…ではないのだけれど、…ねえ?」
「そうねえ、でも活きはよさそうだわ」
白魚のような指が右に左に鵺野の顎をあげさせ、品定めさながらに眺めてくる。鵺野はなんとか視線を玉藻に向けて救いを求めるが、彼も彼女たちは苦手らしく、いつもような助け船は期待できそうになかった。
ふと、思いついたように彼女らは「ねえ、玉ちゃん。ちょっと、味見してもいい?」と鵺野から視線を外さずに訊いた。
「駄目です」さすがに間髪入れず、ぴしゃりと玉藻は応ずる。
「まあ、即答ね。ちょっとは考えてくれたっていいんじゃないの?」
「駄目です。鵺野先生はまだ女を知らないんですから」
ようやっと解放されるのかと思いきや、玉藻から予想外の攻撃を食らって流石に鵺野は慌てた。いくら鵺野のためを思うゆえの発言だとしても、相手は人間を籠絡する手練手管に長けている妖狐だ。馬に人参、いや狐に油揚げ的な秘密事項をあっさりと暴露されて鵺野は気色ばんだ。これではまったく助けになってないばかりか、追い打ちをかけているようなものではないか。
「ば…っ! ななな何いってんだよこんなときに!?」
「だって本当のことでしょう」
「だからってお前…!」
「そうなの? 本当に?」
思いがけない『美味しい話』に双子の姉達は急に色めき立った。それを見た途端、玉藻がしまったというしかめ面をする。ようやく自分の失言の重大さに気付いたようだ。
「そんなコト聞いたら、俄然興味が湧いて来ちゃった」
「落し甲斐がありそうですわ」
「……姉上方」
傍若無人な姉たちに、玉藻の声の調子がスッと変わった。あ、これは本気で怒ったと鵺野は気の変化でその変化を感じとり、二人の姉も無論その変化に気が付いたようで、玉藻の方へ鵺野を押してよこす。
「冗談よ、じょーだん。嫌ねエ、すぐ本気にするんだから」
ひらひらと手を降り顔を寄せ合い「冗談が通じなくて困るわぁ」と笑い合ったりしているが、部屋の温度が2度は下がった心地だ。鵺野は両腕を抱き、ぶるりと震えた。
(……し、心臓に悪い…)
夏だというのにゾクゾクとした感覚がなかなか離れてくれない。玉藻は姉たちから隠すように移動し、鵺野の肩を労るように抱きよせる。
「でもヌエノセンセ、その気になったら是非わたくしたちに仰って、ね?」