さとがえり
当時としてはものすごく稀少で高価な西洋の腰掛けに座る一人の「少女」。まだ未完成の、それでいて十二分に美しい顔に白粉が塗られ、紅が引かれ、まだ肩に付くほどの髪を結い上げキラキラと光り輝く花簪を挿している。なんとも現実的というか真に迫ってみえる写実的な姿絵でありながら「絵画」の装飾性も十分にある。
これを描いた絵師に、鵺野は最大の賛辞を贈りたいと思った。描いた側が例え人間であろうとなかろうと、これほどの美を写しとる力というのは並大抵のことではないはずだ。
今にも絵からぬけだしそうに可憐に微笑むその視線から、鵺野は目が離せなかった。
この絵を含めたいずれも経年的な画面の劣化は免れようもなかったが、対象(モチーフ)の美しさを損なうものではなかった。鵺野がその一枚ばかりまじまじとみつめているのに気がつき、
「ああ、それはちょうど石蕗丸くらいの年かな。この頃はもう変化(へんげ)の術は完璧に近い出来栄えで、誰よりも早く人化(じんか)の術に取り組んでいたころで」
何かを思い出したのか、青柳はそこで小さく笑い、
「この頃まではまだとても素直でね、姉達三人がしょっちゅうこんな風にして玉藻で着せ替え遊びをしていたんだけど、まあ文句の一つも言わずに…忍耐の強さは感心なものだった」
枯れ葉のように積もる絵の中から青柳は一枚を探し出して引き抜くと「ああ、これこれ」と微笑みながら鵺野の前に差し出す。いま鵺野が手にしている物と衣装は同じで、玉藻を真ん中にして三人の少女が笑顔で囲んでいた。
うち二人は間違いなく先ほどの二葉と三葉なのだが、もう特定する事は諦めていた。とにかくも美しい姉達に囲まれて、誰がどう見ても四姉妹に見えるのが面白い。
「…それは、遊ばれていたというのでは…?」
「まあ、そうとも言うね。―それ、気に入ったの?」
「え? あ、まあ……はい」
「気に入ったのならそれ、あげようか?」
「そんな、いいです! 頂けませんこんな大事なの! それに…あんなに嫌がってるのなら、うちで飾ることもできないだろうから、勿体ないですし」
「じゃあこれのポジがあるから写真送るよ。だいぶ前に保存のために加工したから、も少し綺麗なの上げられるよ。手帳にでも入れられるくらいのサイズで、ね」
「……有難うございます」
「いいって。そんなに泣きそうなくらい不肖の息子を好いてくれているんだから…これくらいはやってあげなきゃ。サービス、サービス」
「あ、いやこれは」
何だか訳も分からず感動してしまって潤ませていた目を慌てて拭う。
半分は感動と、それと今では想像するのは難しいが、玉藻にもこんなにちっこくて可愛い時代があったんだなあ…と感慨もひとしおというのがあとの半分かもしれない。
タイミングを同じくして、スパーンと小気味良い音を立てて襖が開き、玉藻が姿を表す。ようやっと青柳の分身を振り切ったと見えて満身創痍だ。
「やあ、意外と早かったねぇ。人間界の荒波に揉まれて、少しは成長したとみえる」
息子の成長を一人で感心している青柳の言葉はきれいに無視して、「父上……何、先生を泣かせて居るんですか」と荒い息で玉藻は凄んだ。
「ご、誤解だ玉藻! 別にこれは…!」
「鵺野先生は黙ってなさい! 父上、事と次第によってはただでは済みません!」
「へえ、僕の分身ごときにそんなに手こずる君が、どうしようって?」
どういう理由(わけ)か明らかに挑発する青柳、一触即発といった空気に鵺野は必死に考えた。
どうする、どうしたらこの場を納められる? さあ、どうする。…ふと、ポケットに突っ込んでいた携帯に手指が触れた。
カシャー
その場にそぐわぬ間の抜けたシャッター音に、玉藻と青柳は音のした方へ顔を向ける。そこには携帯電話を片手に仁王立ちする鵺野が、携帯を片手に玉藻へ叫んだ。
「玉藻! こンの、馬鹿狐! 今すぐ喧嘩止めなきゃ、お前のはずかしい写真を全世界へ発信するぞ!」
戯れ言とは聞き捨てることができかねる言葉に「……何を、撮ったんですか…?」と玉藻が問うと、「これだ!」と鵺野は携帯画面をこちらに向けて突きつけた。
そこには先ほどの人形のような幼き頃の玉藻の絵姿がはめ込まれていた。
最近の携帯付嘱のカメラは高性能。細かいところまでしっかりばっちり撮れている。
「……!!」
「どうだ、これを不特定多数にばらまかれたくなければ、今すぐ止めるんだ!」
正直、博打ものだった。似ている、というのはあくまでも鵺野の主観によるものが大きく、絵姿の少女が玉藻だと言わなければ誰にも判らないだろう。そんな子供騙しのような駆け引きに玉藻が引っかかってくれるかどうか…。しかしこのまま放置しておけば本気を出した妖狐達によって家の一軒や二軒は軽く吹き飛んでしまうだろう。帰省早々、それだけはなんとしてでも阻止しなければならなかった。
「……わかり、ました……」
玉藻はしばらく握り拳を、噛んだ唇を震わせて考えて、悔しげに吐き出すようにそう応えた。
「判って…くれるか……」
ほっと胸を撫で下ろす鵺野の耳に、「ただし」と追い打ちをかけるような玉藻の声が刺さる。
「…ただし……?」
「但し、この如何ともしがたいこの憤り…是非、貴方の身体で責任を取っていただければ、と思います」
いつもの妖しい微笑みで「よろしいですね?」と念を押す。