さとがえり
「古くからその様に呼んで、親しんできましたから…。この辺りでは夏の川遊びに使ってきました。ずっと上流のほうは滝になっていて、あちらは主に若狐たちが修行に使っていますよ」
さすがにこの場所から上流の方は見えないほど遠いし、修行の場というのならばとても神聖な場所であるはずだから、とても行ってみたい気持ちはあったが人間である鵺野がほいほい赴くわけにはいかなかった。
川の流れは美しく澄んでいて、30年か40年は以前の時代を想像させる風景が広がっていた。幅は広いところで10メートルくらいだろうか、手入れはされているが、特別に整備されていない姿が妙に懐かしさを感じさせる。少し離れたところには一際大きな楠が聳え、ちょうど木蔭に隠れるような配置の四阿が見え、さらに木で作られた階段状の道が四阿から川の方まで続いていた。なるほど、気軽に川遊びが出来るように作ってあるものらしい。
「ちょっと入ってみてもいいかな?」
「どうぞ。足もとには気をつけて」
「おう」
少年のように瞳を輝かせながら鵺野は目の前の流れへサンダルを脱いだ足を下ろす。
「うおっ、冷た!!」
外気温に比べると流れる水は清く冷たく、川底の石のわずかにぬめる感触も面白かった。
「ちょっと、滑る…な…っうわ!」
「先生!」
玉藻が水を蹴立てて駆け寄ろうとしたが、その手が届く前に派手な水音を立てて鵺野は転んでしまった。
「あっ…たたた…」
「大丈夫ですか?」
玉藻が伸ばす手に捕まり、なんとか立ち上がる鵺野。
「気をつけてと言ったのに」
「違う、誰かが足を掴んできて」
「…分かってます。蜷川どの、子供じみたちょっかいはおやめ下さい」
その言葉に、浅いはずの川面が盛り上がり、人の形になった。文字通り『水も滴るいい男』は大陸系の容貌をして、細い目を一層細めてこちらを見た。
「妖狐の谷に人間の気配がするので気になって見に参った。そうしたら可愛いあんよが見えたで、つい、な」
目の前に何か見慣れぬものがあれば触ってみたくなるのが人情であろう? と、しれっとしている。
「まったくどいつもこいつも……」
娯楽が少ないという理由で、人にちょっかいを出すのはやはりこの土地の主(九尾)がああだからだろうか。いやいや、妖怪とか神様とかそういった類の方々はだいたいがそんな感じなのだ、鵺野は失礼とかそういうのを感じる前に毒づいた。
「察しておくれよ。もうずいぶんと長いこと暇を持て余していたのだから」
川の神はほんのりと笑む。玉藻…もとい妖狐とはまた違う種類の色気を感じる微笑みで、一瞬鵺野はどきりとする。幸いにそれに気付かない玉藻の方に向き直ると「で、これがお前の嫁か」と訊いてきた。
「いや、一応男なのでその言い方はちょっと」
鵺野はせめてもの抵抗を試みるが、「したが嫁であるのだろう? まあ、男子(おのこ)が細かいことを気にするな」と返された。
「……はあ…」
仕方が無いとはいえ、この手のやりとりはいい加減に辟易してくる。そういう不満が顔に出たのか蜷川は鵺野と玉藻を交互に見やり、「……ああ! そうか。吾がいては邪魔であるとな? うむ、然り然り。では邪魔者は退散しよう」
間違った見解ではあるが、その申し出は有り難いので二人とも何も言わずに見送るが、一度は流れる川面に潜った蜷川は直ぐに顔を出す。
「これを青柳どのに渡しておくれ。酒の肴にちょうど良かろう」
ほいっと、大きな笹の葉をざっくり編んだ籠のようなものを投げてよこす。受け取った玉藻が開けてみれば水揚げされたばかりの川魚が銀鱗を光らせて包まれていた。
「ではな、さらば」
今度こそ川面に溶けて、ぽちゃんと消えた。
「……」
「……」
川の神が消えた後にはずぶ濡れの鵺野と、ビチビチと水を跳ねさせる川魚を手にした玉藻が残された。
「……すみません、災難でした」
「……いや、お前の謝ることじゃないさ」
玉藻も結構濡れているので「お互い様さ」と鵺野は慰めた。
「しかし天気が良いから、すぐに乾く服はいいとして……」
鵺野は玉藻の荷物をのぞき込み「…どうするよ、それ」と玉藻の手にする川魚を困ったように見る。もうじきに昼になるという刻限。炎天下とまではいかなくても夏のこの大気の中で生魚が長く持つとは思えない。せっかく貰ったのに傷ませて捨てることになるのだけは避けたいと鵺野は思う。手っ取り早く川に戻すことも考えたが、それでは贈り物の川の主にあまりにも失礼だ。
「まったく、蜷川どのも考えなしなことをなさる」
少し考えるそぶりをした後、玉藻は「石蕗丸」と呼んだ。
すぐさまこれに応え、「御前に」と、どこからともなく若狐が現れてひざまづく。
「これを父上に届けてくれ。蜷川どのが酒の肴にと下されたが、この天気で傷んではいけないから。檜垣にもそのように伝えよ」
「かしこまりました。確かにお預かりいたします」
玉藻の手から笹の葉ごと捧げ持つと「では」と一礼するなり風に紛れて見えなくなった。
「さあ、私達はもう少し散策していきましょう」
濡れた衣服を摘みながら日差しの当たる場所を選んで歩いて行く。
「しかし、石蕗くんは神出鬼没だな。付いてきているの分からなかったよ」
「…先生、それは少しばかり油断が過ぎます」
鵺野の言葉に玉藻はたしなめるような顔つきで言う。
「いや、油断て…妖狐の谷のど真ん中でそんな、というか俺人間なんだからな普通の。だいたいお前が」
「だいたい? 私がなにか?」
どうやら口が滑ったらしい鵺野は、口元を押さえている。しかし玉藻はそれ以上の沈黙を許さずにじっと目を見つめてくる。この視線に鵺野は弱かった。
「…大体、お前が側にいるから…平気なんだろうが」
「え、それって…ちょっと、鵺野先生?」
意表を突かれたような玉藻の一瞬の表情に、してやったと鵺野はひそかにガッツポーズをして駆けっことばかりに走り出した。