さとがえり
17
「あ―ッ!…もう、辛抱堪らん!!」
「落ち着け、黄蘗(きはだ)」
「ええい、止めてくれるな玄(げん)胡(こ)!」
「止めはせんがその耳と膨らました尻尾をしまえ、みっともない」
「うぉ、済まん」
一方、その頃。
鵺野たちが川の主とやり取りのあった遥か上流、瀧のたもとに建てられた御堂には修行と称して数人の若狐たちが集まっていた。良い天気であるのに堂の板戸という板戸を全て閉めきり、暗いその中央で車座になってなにやら騒いでいた。
「だいたい石蕗丸はどうした。この前まではアイツがこういう事は真っ先にやってたじゃないか」
一人がそう言うと、先ほど耳を指摘された者―黄蘗は毛羽立った所をなでつけながら「あー、石蕗の奴は駄目だ。あの人間やろうに絆されてしまいやがってる」
そうぼやくと途端に数人がその言葉に反応して接近する。
「えっ、あんなに玉藻さま大事だった奴がか?」
「あの腰巾着、とうとう宗旨替えしやがったか」
狐の耳をもそばだて、顔をつきあわせて口々にはやし立てる。いずれも石蕗丸と変わらない外見年齢をしていた。
「いや…なんでも玉藻さまの大事な方だから大事なんだと」
「うっわ、まじかよ」
「まじまじ。昨夜もさ、何人かで寝込みを襲おうって…結局3人で青柳さまのお屋敷に忍び込んだんだが結界が張ってあってさ。んで様子見てたらアイツ一人で出て来たんだ」
「それでそれで?」
「折角向こうから結界を破って出て来たのに…石蕗丸が『お伴します』なーんて尻尾振っちゃって…手を出せなかったんだよ」
彼は忌々しそうに手の平に拳を打ちつける。
「なんだよ、お前そこまでしときながら引き下がったのか。情けないな」
誰かがそうからかえば、
「ばっ…お前、相手は石蕗丸だぞ? 俺達でかなうわけないだろう」
「けれど、どんだけ玉藻さま大事なんだ。妖狐の誇りはどうしたんだか」
実力で一歩二歩も先を行く同輩の石蕗丸の心変わりを詰ると「そうだ」「そうだ」とあちこちから声が上がる。それでも人数が少ないので何となく尻つぼみな調子だ。
「…まあ、でも、聞けば奴が力を貸さなければ玉藻さまは廃妖怪だったっていうしな」
「でも、でもよ、お前それでいいのかよ。人間風情に玉藻さまが惑わされてさ」
「骨抜きって話、本当かな」
「どっちが」
「玉藻さま」
「やめろよ、考えただけでもぞっとする。俺らは人間を惑わせてナンボだろうが。惑わされてどうするってんだよ」
「でも嫁…っていうか、番(つがい)というか…あの九尾さまもお認めになっておられると言うじゃないか。だとしたら、俺たちがこんな事を思っても意味が無いんじゃないか?」
「…………」
その言葉はかなり真実だった。しばらくは沈黙が続く。
「しかし…さ、正直あの霊気は悪くない。味見くらいしてみたいな」
いつ果てるとも知れない議論の末に腹が減ったのか、ふと誰かがそんなことを呟いた。無論彼らも昨夜の玉藻と鵺野の姿を見ている。確かにあの艶を帯びた霊気、健康的に日焼けした肌が汗ばみ、快楽に喘ぐかすれた声。その情景を思い出したのか、静まりかえった空間に生つばを呑み込む音がやけに大きく響いた。
誤魔化すようにリーダー格らしい男が軽く咳払いをして、
「そうだなあ、せめてちょっと位はいたぶってやりたいよなあ」
「この面子全員で掛かれば、石蕗丸一人くらいなら……」
「だな……そしたら、いけるんじゃねえか」
珍しく良質の霊気を、皮膚を裂いて溢れる甘いであろう血の滴を味わってみたい。
3人寄れば文殊の知恵、と古人は言った。その倍あれば更にいい知恵が出てくるのかといえば、必ずしもそうではないが。あいにくと、この場に集まった面々でそこに気付く者はなく、不毛な作戦会議は延々と続いた。