さとがえり
18
田舎に帰省した者の常であるように、玉藻と鵺野は実にルーズな毎日を過ごしていた。風の通る座敷で昼間から惰眠を貪ってみたり、一流パティシエ顔負けの手作りおやつに舌鼓を打ったり、青柳の書斎から興味のままに本を読んでみたり、将棋を指してみたり。玉藻の忠告に従って常に彼と行動を共にしていた鵺野だが、これまでの休みの旅行でも似たようなものだったので一度納得してしまえば大して気にならない。
しかしそれは帰省して4日目の夜のことだった。夕飯も早々と済ませて特製のあんみつに鵺野が舌鼓を打っている時、
「あのう、鵺野先生……お客様がみえておりますが…」
如何しましょうか? と取り次ぎの石蕗丸が問うてくる。
「客? 鵺野先生に?」
質問の意味がよく分からない鵺野に変わって寝っ転がっていた玉藻が「相手は?」と聞くが、石蕗丸も知らない人物のようで困ったように小首を傾げている。この屋敷を訪ねてくると言うことは妖狐には間違いない。しかし若いながらもそれなりのポジションに居る石蕗丸すら知らないというのは不可解だ。
「しかし、しかし確かに鵺野先生に会いたいと…」
間違いなくそう聞いたのだと石蕗丸は訴えるが、一体誰なのかが判らないが鵺野を名指しで呼ぶとは怪しい奴、と玉藻は眉間に皺を寄せて懐から鉄球を取り出す。
と、その時。
「こ、困りますあの…お客さ、ま!」
岩見の慌てた声と、聞き慣れない足音がとたとたと近づいてきた。
だれだ、と玉藻は警戒し、鵺野も身を起こしていつでも動ける体勢を取る。と、
「鵺野どの」
「く…九(く)尾(み)、さま?」
ひょっこりと現れたのは、先日の引きずるような着物姿とは違い軽やかな洋装に身を包んだ九尾だった。鵺野の好みを考えてなのか27かそこらの外見をしている。
「遊びにきたぞ!」
夏らしく蒼い小花を散らしたコットンのワンピースにフレンチリネンのカーディガン。たっぷりとギャザーを寄せたスカートは動きに合わせてふわりと揺れる。ヘアスタイルもつややかな黒髪を鬢で一束、細い三つ編みにして後でまとめている。まるで良いところのお嬢さんといった出で立ちは夏の晴れた日に白い日傘なぞさしていたら完璧だ。
あまりの出来事に居並ぶ面々は驚愕に固まり、岩見や石蕗丸はほとんど初めて対面する妖狐の神の姿に畏れ、平伏したまま息を詰めてぴくりともしない。
この騒ぎで書庫から現れた青柳は、九尾の姿を見て息を呑んだ。
流石に彼は初対面というわけではないが、下々の屋敷に九尾が訪れるなど今まで数えるほどもあっただろうかと驚いた。
九尾は青柳の姿を認めると、「おお、青柳どの。邪魔してるぞ」と何事もないように微笑む。
「……はい……いえ、」
それだけを言ったきり、青柳ですら二の句が継げない。
そんな周りの反応など何処吹く風で、九尾は鵺野の格好を一通り眺めると「夏とはいえ夜は冷える」と前振りもなしにそう切り出した。
「何か上に一枚重ねておいで」
「は、はあ…」
訳も判らずに適当な服を探し出す鵺野に代わって、玉藻が糺す。
「いきなりこのような時間にお出でになられては困ります。一体何用でございますか」
鵺野が九尾に気に入られたことは悪くはない状況だと思っているが、それでも良いとも思ってはいない。まさか別の意味があるのではないかと気が気では無かった。
「見よ、良い夜ではないか。ひさしぶりにそぞろ歩きなどしてみたくなった」
「それでどうして」
「判らぬのか? いや、判りたくない気持ちは判るが…一時(いっとき)ほど鵺野どのを借りるぞ」
「な…!」
玉藻の脳裡では2時間もあればあんなことやそんなことまで出来たりしてしまうとよからぬ想像が突っ走る。そしてそう思ったのが顔に出たらしく、「なにを慌てておる。ただの夜の散歩、他意はない」と、九尾はくすりと笑い、「何事も自分ばかりを基準に考えては困る」とさらに笑い飛ばした。
「ならば、わたしも」
「私は鵺野どのを、というておる。お前は遠慮してくれ」
「……わかりました」
「お忍びでおいでとは…これはまた随分と気に入られたものだね」
夜の散歩に繰り出す二人の後姿を見ながらびっくりしたように、だけど幾分楽しげな口調で青柳は一人言のように呟き、その隣で玉藻は珍しくもキリキリ痛む腹をさすっていた。
残してきた玉藻が少し心配で時々後ろを振り返りながら先を行く九尾のあとを追う鵺野を見て、九尾は楽しそうに笑う。
「ふふ…うふふ、おもしろいなあ、鵺野どのは」
「そ、そうですか?」
「いつぞやの事で懲りているだろうに、やっぱりまた見た目に惑わされている」
「……」
その通りだ。どう頑張っても鵺野の目には、目の前に立つのは世間知らずのわがままなお嬢様という風にしか見えなかった。目を閉じて純粋に気配だけを追えば抑えていてもそれと判る、幾星霜も歴史を重ねた怪異(あやかし)の気に充ち満ちているというのに、だ。
「似合わない?」
スカートの裾を軽くつまみ上げ、小首を傾げて聞いてくる様はまるきり普通の少女だ。
「え、いや」
いきなりそんな事を聞かれて面食らう鵺野に、九尾は「女にはこういう時、世辞でも『似合う』というものだ」と形の良い唇をとがらせた。拗ねたしぐさも本当に可愛い。
「……そういう服も、お持ちなんですね」
「いいや、持たん。二葉に借りた」
「…あぁ、玉藻のお姉さん…の、どっちか」
「そんなことより、ほら鵺野どの、こっちだこっち。ふふ…」
九尾はまるで小娘のようにはしゃいでいた。満月の光が煌々と闇を照らし、艶やかな黒髪が月の光で輝いている。やわらかなスカートが動きにつれてふわりと揺れ動くのが面白いのか、ゆるやかに踊るように丸く歩いてゆく。サンダル履きの素足がふくらはぎまでも露わになるが気にする様子は見られない。
月の光を背中にほほえむ女神。そんな埒のないことを考えて月光が黒髪を白く染めるのを見ていた鵺野は、ふと、光の加減だと思っていた髪の色が変わらず白いままなのに気付いて目をこする。
「あ、れ―?」
「どうした? わたしの顔に何か付いているか?」
「いえ、あの―…その、髪の、色が……」
鵺野の指摘に九尾は自分の髪を一房、目の前にかざし、「…これはしたり」と呟いた。
月の光のせいだけでなく、九尾の漆黒の髪は、薄い黄色―いや、雪のように真っ白な色に変わっていた。
「少々はしゃぎすぎてしまったようだ。せっかく緑の黒髪をきめていたのに為損じたわ。済まんな、見苦しかろう」
「いいえ……きれいです、すごく」
やっとのことで鵺野がそれだけ口にすると、まんざらでもないように九尾は笑んだ。
「ふふ、鵺野どのは…時折、世辞がうまい」
白い色の髪はともすれば老人のようでもあるが、なめらかな艶のある様子はそれとはちがっていた。