さとがえり
夢のように美しいとでも言えば良いのだろうか。鵺野はその姿をぼうっと眺めているうち、過去(むかし)彼女に誘惑された為政者達の気持ちが分るような気がした。例え人の世を争いと疑いで乱す存在だと知っていても、ただこの世ならぬ美しさに触れたことを幸せだと思う、自分一人の腕の中で笑うその存在を、誰にも渡したくはないと―そんな風に思ったのだろう。そう思うと涙が出てしまいそうだった。
潤むまなざしを見られないように足元の月影を見たりするが、やはり気がつけば引き寄せられたように九尾を見つめていた。善でも悪でもなんでもいい。ただその美しさに触れていたい。
まるで炎に焼かれると判っていても、なお惹かれてしまう夜蛾のよう。
「……なあ、鵺野どの。我等の存在意義はなんであろう。そうは思わないかい?」
鵺野の思考を見透かしたわけではないだろうが、似たような事を九尾も思ったのだろうか。その問いに答えることは、人間である鵺野はまだ幼かった。答えあぐねて何も言えなくなってしまうが、そもそも九尾も答えを期待してはいなかったようで何もとがめることなく、またそぞろ歩きながら問わず語りに語り出す。
「最近またこの世に見えないものを信じないという者が増えていてな。……私はよい。もはやこの身はいかに揺るごうてもかまわぬ。しかし―たかだか100年をも満たさぬ仔狐たちにとっては信じるものの数が時として命運を左右する。正直、このままでは先細りなのだよ」
悲しげにみえる微笑みを向けて、時折小石を蹴りながら俯いて九尾は歩く。
「既に人間は我等の存在を待たずとも、立派に世を混乱と殺戮とに落とし込めている。愚かで下劣で…それ故にいとおしい。我等はもはや無用の長物か。それでもなお、在り続けるのは、必要とされているからか。我らを、この存在を…必要としているのは、一体誰であろうな」
基本、あやかしは人から産まれた存在であるから、その心次第で同じように消滅したりもする。しかし九尾のように悠久ともいえる年月、子から子へ、そして孫へと連綿と伝えられた悪い狐の、または哀れなきつねの存在はもはや僅かな人間が否定したところで微塵もゆるがない。
どこか遠い所を見ているような横顔に鵺野は言葉を継げないでいた。人の姿をしているからだろうか、それとも思いがけない悩みを吐露されたからだろうか。
「……本当はなぁ、反対しようと、思案しておった」
前触れもなく急に話題を変えられて面食らう鵺野に「お前達のことだよ」と九尾は言う。
「種族がちがうだけでも一大事であるのに、そなたらときたら男(お)の子(こ)同志。二重の困難だ。そうだろう?」
一つのドクロにこだわっていて姿を変えようとはしない玉藻のことを九尾はまだ憂いているらしかった。
「お前にとっては酷なことかもしれないが、寿命が違うのは分かりきっている。だからせめて子供でもあればなあと、余計な事ではあるだろうが思うのだよ。子供は縁(よすが)になるからな。お前たちの間に産まれるならば半妖という運命を負うが慈しんだ証となるだろう。玉藻は大事な何もかもをお前への思いにすり替えているような気がする。この前の一件はそれに注目する良い機会であったはずなのに」
「……それは…玉藻が俺を残して先に逝く、ということですか」
鵺野の言葉に、九尾は驚いたような顔をした。
「あの件で……子供の事については多分あいつも考えてます。いや、もしかしたら俺よりも考えているかもしれない。自分が先に逝く可能性を知ってしまったから」
そうだ。先日九尾との謁見後に何時になく子供のことにこだわっていたのはそのせいだ。鵺野は今になって…九尾に語ることによってその事に気がついた。人間にない力を持つ妖怪でも、沈む太陽を戻すことが出来ないように出来ないことはある。
だから男同士のままで出来る方法を、鵺野が嫌う方法だと判っていても―選択肢の一つとして伝えたのだ。形見を残したいと、多分柄にもなく真剣に考えて。
「……まあ、いざとなったら、私が相手してやってもよい」
「は?」
「聞いてはおるのだろう? 外法の術だよ。私が仲を取り持ってあげてもよい」
「九尾さま―からかわないで、ください。それに貴方を相手になんて…無理ですよ、そんな。恐ろしくてきっと勃ちません」
「おや、はっきり言うね」
よほどおかしかったと見えて、九尾はころころと笑い転げた。
「奴が惚れるのもわかる気がするよ」
九尾はひときわ枝振りの良い一本の巨木のある高い場所に辿り着き、幹に手を触れ黙って遠くの景色を眺めていた。鵺野も九尾の近くに並んで、彼女と同じように闇に目を向ける。夜風が心地よく二人を包む。暗闇に目が慣れると、ぽつりぽつりとかすかな明かりが灯っているのが見えた。家の明かりだろうか、それとも狐火かと考え、妖狐の谷なんだからどちらにせよ狐火だなと鵺野は思った。
「ここからだと、谷全体がよく見えるんですね」
「見える分だけは、な」
謎かけめいた言葉を放ち、鵺野の方に向き直るとまるで何事もなかったかのように、
「さ、戻ろう。あやつ、きっとイライラしながら酒でも喰らって待っておる事だろう」
九尾はそう言ってくるりと回って今来た道を歩き出す。弾みで雪のような白髪はゆるやかに裾を広げ、鵺野の鼻先をかすめていく。
夜道で足元がおぼつかずに少し二人の距離が空いたそのとき。
音も無く、人の形をした闇が鵺野の目の前を遮った。
「だれ、だ」
鵺野の誰何に、当然ながら返事はなく、ただ拳だの蹴りだのが跳んでくる。闇の中で目が追いつかす、気配だけでなんとかそれを躱し続けた。明らかに相手は妖狐だ。しかもそこそこ腕の立つもので一人ではない。殺気は感じないまでも、それに近い感情の高ぶりは合わせた拳から感じ取れる。
「ぐっ…!」
「鵺野どの!」
後じさる鵺野の背後に柔らかいものが触れ、少し先に行っていたはずの九尾がいつの間にか側にすり寄っているのだと気付いた。
こんな時に。
「くみ、」
九尾さま、と続けようとしたが、目の前の一撃を躱すのに気を取られて果たせない。
「鵺野どの、こわい」
おまけに九尾はか弱い小娘のように身を縮めて、一層鵺野の腰元にすがりつく。どうやら見た目どおりの役になりきることに決めたらしい。
「〜〜〜〜!」
九尾はこの谷で至高の存在であるのだから、卑怯な闇討ちなど一言そうと告げれば解決するはずである。それなのにこの対応とは…。何とかしてくれという思いを込めて九尾の顔を見るが、
「しかと私を護っておくれな、鵺野どの」
「く、み…!」
にっこりと微笑み、再び腰にしがみつく九尾に何も言えなくなった。悪気のない悪ふざけというものは多分こういうことなんだろうと、鵺野は思いながら応戦の体勢を取った。
「宇宙天地興我力量降伏群魔迎来曙光…!」
封印を解除して異形の左手を振りかざせば、若狐たちの間に瞬時『畏れ』のような感情が広まったのが分かった。それでも、ここで引けば妖狐の名折れとばかりに互いを鼓舞し、あるいは牽制し、もしくは率先して鵺野へ襲いかかる。