そは、やはらかにながれゆくもの
薄く開いた天窓から、柔らかく湿った風が入って来る。薄紅色の花びらが浮いたティーカップの中身は冷めきっていて、それでもぼんやりと窓の外を眺め続けていた。
「…ほんっと、飽きねぇのな。」
苦笑混じりに呟いたその人は、いつの間に来たのかガラスの扉に縁り掛かっていた。
「…他に、することないし…」
ここで、窓の外を見ているくらいしか。
休息の時間を、と言う名目でここに軟禁されているようなものだ。だからと言って、進んで外に出たいとか、アスランやカガリのように政治の世界の片隅を覗いてみようともキラは思わない。この柵の外の世界がどうなっているのかすら、あまり気にならないくらいで。
ま、そうだけどな、とディアッカは続けて、持っていたトレイを白いテーブルに降ろした。ガラスのティーポットと、色とりどりの丸い菓子が乗っている。
「さっき暇だったから教えてもらって、焼いてみた。」
さらりとそう言って向かいの椅子に腰を下ろしたディアッカは、キラの目の前にあったカップを取り上げて行儀悪く中身を庭先に捨て、新しいお茶を注ぐ。ふわりと甘い香りが広がった。
「…焼いてみた、って…」
最早呆れていいのかどうかも難しくなって来る。
ここに来て、最初に暇だから、と言う台詞と共に出てきたのは確か、マフィンだったような気がする。それから毎日、クッキーやらケーキやら、この屋敷に務める料理人と楽しそうに調理場に篭っているのだ。お菓子は嫌いではないから、特に反対もしないけれど。
「こういう事って、女の子の方が好きなんじゃないのかなぁ?」
ころりとした外観の、思ったより軽い焼き菓子を手のひらで転がしながら呟くと、偏見だろ、とディアッカは答える。
「髭生えたおっさんだぞ、この可愛いやつ教えてくれたの。」
あんまり似合わなくて大ウケ、と一人で思い出し笑いなんかしている。言われてみれば、およそカガリなんて寄り付きもしないだろう。食べる時は幸せそうだけれど。
「やる事ないのは、事実だもんねぇ…」
そう笑って、軽い歯触りのお菓子を頬張った。
それまで、優しい時間が足りなかった、のだと思う。いつ終るともしれない時間に慣れ過ぎていて、なにもかも刹那的な感覚。
ああ、そうか。
優しい時間は、戦争に巻き込まれる前はたくさんあった。けれど、この人と過ごす優しい時間は少しもなかったのだと気付く。だから、今はこんなにも穏やかな気持ちで時間が流れて行くのだろうか。
終りが、来ない訳じゃないのに。
唐突な友人の来訪に、驚くと共にやっぱり来たか、と妙に納得した。
幾分疲れたような顔をして、それでも何処か高飛車な表情のままの友人。いい加減にしろ、と開口一番溜息混じりに呟いた。
「いつまでこうしているつもりだ、お前達は。」
複数形を使った、と言うことは、もれなくあと約一名も入っていると言う事だ。
「…さぁて、ねぇ?」
具体的な時間は見えて来ない。この不思議と心地良い共同生活が始まって、まだ一ヶ月くらい。それまでを考えれば、短いくらいだ。
恐らく、世界中の人が同じ条件の元に戦争が終った後の生活を始めた。違うのは、自分達はもといた場所に戻れない、と言う事だけ。未練がない訳じゃない、けれど戻りたいとも戻ろうとも思わない。
「…約束、してるからさ。」
終るまで、ここにいる。
その終りが、いつになるかは判らなくても。
「せめて、さ…それくらいの時間は欲しいワケ。」
悪いな、と言って苦笑を返すと、面白くなさそうに整えられた銀色の髪を掻き上げた。
「お前が…アイツ、に、そこまで義理立てする必要が、何処にある?」
低く響いた言葉。
良く分からない感情のまま、ここまで来た。それがなんなのか、今でも曖昧なまま。
「ん…まあ、守りたいって事実だけは、本心だから。」
だから、ここにいる事しか出来ない。
「あいつが、もういいって言うまでさ。」
その時、終りが遠くに見えた気がした。
オーブに戻る、と彼女は言った。
「戻る準備が出来たって、連絡が来た。だから、私は行くよ、キラ。」
少し寂しそうに、けれど力強く微笑んで彼女は自分の行く先を選んだ。けして、平坦ではない道を。
待ってるから遠慮するなよ、と彼女は去り際に強くキラを抱き締めて言い残した。
「…うん。」
有り難う、と小さく呟いて、抱き締め返すことしか出来ない。
終る時間が、近付いている。ただそれだけが目の前に突き付けられた。
したいようにすればいいんですわ、と遠く去って行く車を見送ってラクスは言った。
「私達は、出来るだけの事をしたつもりです。あの時も、これからも。」
たくさん支えてくれた彼女は、恐らくこれから歩むべき道を決めているのだろうと思う。強い人だな、と思った。未だ中途半端なのは、自分と。
「…どうするの、かなあ?」
微かな呟きは、酷く遠い空の向こうに消えていった。
同じ光景を、部屋の中から見ていた。俺も行くよ、と静かにソファから立ち上がった友人を振り返る。
「あんまり、待たせる訳にもいかないから。」
堅物、というより他人の機微に疎いアスランにしては、良く気付いたと誉めてやるべきか悩む所だ。それでも、護りたいものを明確に持つ友人を、羨ましくも思う。
「…そっか。」
自分が考えるより、以外とあっさりとその時はやってくるのかも知れない。今、ここからこうしてアスランが離れて行くように。キラの傍にいつまでも居られる訳ではなく、しきりに戻って来いと言ってくれるイザークの言葉も気にならない訳でもない。
けれど肝心な、自分がどうしたいのか、という考えがディアッカにはない。
「お前、どうするんだ?」
急に水を向けられて、言葉に詰まった。それはまさに今考えていた事だから。
「どう…って」
言い澱んでいると、らしくないな、と苦笑混じりに返された。
「前だったらきっと、もっと単純でいい、とか言いそうな所だろ?」
憎らしい方に変わった気のする友人は、そう言って笑う。
「…悪かったな、伝染ったんだろお前の悩みグセが。」
ぶっきらぼうに返すと、アスランはそれはそれは、と幾分大袈裟に肩を竦める。そうして、ディアッカの肩を軽く叩いて部屋を出て行く。
「…頼む、あいつのこと。」
重い扉のドアノブを握り締めたまま、振り向きもせずにそれだけ言い残して。
「…ふぅん?」
そんなに信用してくれて、と苦笑混じりに呟いた。
「良いのかねぇ、ホント。」
約束、は理由に過ぎない。それがあってもなくても、多分自分の選んだ道は今と同じだろうと思う。どうしてそう思うのかは、まだ良く解らないけれど。その後のことなんて、そうなってみてから考えればいい。
ただ、それでも傍にいて、少し後ろで支えてやらなければ立っていられないように見えたのだ。強い存在は、些細な事で脆く崩れるものだから。
キラは強い。けれど、あのときとても頼りなく見えたのもまた、事実なのだから。
だからせめて。
「頼まれなくても、傍にいるよ。」
そう、この穏やかな時間が終りを迎えるその時まで。
作品名:そは、やはらかにながれゆくもの 作家名:綾沙かへる