Flash Memory ~いつか見た夕暮れ~
引越しは思ったよりもあっさりと片付き、なるべく生活臭を漂わせる為にさり気なく散らかして。もっとも、キラ自身が自分で必要とする場所以外はほとんど手を着けない性格だった為、私室だけがあっという間に乱雑になって行き、見本のように片付いたリビングや、滅多にその機能を働かせる事のないキッチンはそのままだったけれど。
この部屋を用意したのはラクスだ。名義こそ全く知らない誰かになっているけれど、何もかもが用意された部屋で待っていた彼女はただ、キラを見詰めてごめんなさい、とだけ呟いた。
「…私が、出来る事と言ったらこれくらいですわ。彼のことも、私の所為ですのに…」
結局またあなたに頼ってしまいますわね、と続けたラクスは、微笑を浮かべていた。
「それでも、こんな事を言うのもどうかと思うのですけれど…」
少しだけ、幸せそうに見えますわ。
久し振りに顔を合わせた少女は、何時の間にかとても大人の女性になっていて驚いた。そうかな、と恐る恐る訊ねると、彼女は笑って頷いた。
だからきっと、何処かでこの状況を喜んでいる自分もいるのだろう、と思った。
辛くて哀しい記憶。それを忘れてしまった人と、何もかも覚えている自分。
流れた時間は元には戻らない。けれど、もう一度まっさらな状態でやり直す事が出来たなら。それはそれで、きっと彼に取っては幸せなのだろう、と思う。
辛い記憶は、自分だけが持っていれば良いのだと。
ただ、生きていてくれれば、それだけで。
とても奇妙な同居生活が始まった。
隔てているものは、壁一枚だ。けれど、同じ家にいながら、ほとんど顔を合わせる事がない。毎日、決まった時間に通院するディアッカは、それでも一応家主に声を掛けて行く。その時しか、キラの顔を見る事がない。
「…病院、行って来るから。」
部屋の中には入らず、開いた扉の外でそれだけ告げれば、キラは決まって柔らかく微笑んで行ってらっしゃい、とだけ返事をする。
最初から抱えている仕事が忙しい、と言っていた。食事も自分で勝手に食べて、と言った本人はロクに部屋から出て来ない。職業を訊ねたら、システムエンジニアだと教えてくれた。こっそり覗き見た背中は、終始モニタに向かっていて、何事か物凄いスピードで打ち込んでいた。その背中が、拒絶しているように見えてなにも言えなかった。
五日目、いつものごとく主治医とつまらない押し問答を繰り返して辟易しながら部屋のドアを開けると、珍しくキラがリビングにいた。少し驚いたように軽く目を見開き、次いで笑みを浮かべてお帰り、と言った。
「…アンタ、マトモな人間の生活してるのか?」
疲労の色が濃く浮かんだ端麗な容姿は、不健康極まりない色になっていて。思わず口を突いて出た言葉に、キラは小さく笑う。
「う…ん、してない、かな。」
典型的な引き篭りを実践し続けるキラは曖昧に笑ってその先を誤魔化した。そうして、お茶淹れるけど、と言ってキッチンに向かう。その背中をなんとなく追いながら、ディアッカはジャケットを脱いでソファに放り出し、所在無さげにローテーブルの上に散らかっていたものを片付けていた。そのなかに、何処かで見た事のある栄養補助食品の空き箱を見つけて、思わず脱力した。
こんなもんだけで生きてるのか、と思うと、何処か頼りなさそうな後ろ姿も頷ける。
そう言う自分も、面倒臭くてここ数日近所のカフェで買って来たジャンクフードばかり食べている。中の上、くらいの一般家庭で、両親が共働きのごく普通の環境で育って来たディアッカに取って、食事の仕度を自分ですることくらい訳も無い。父親が評議会議員に選ばれたからと言って、その生活が大きく変わった訳でも無い。
まるでショールームのように整ったキッチンを見る度に、多分こいつ自分で料理なんかしないんだろうな、と漠然と思ってはいたのだけれど。
ふわり、とコーヒーの香りが漂って来た。外からこの部屋に入ると、必ずコーヒーの香りがしている、と言う事に気付く。自分が淹れることは無いから、それだけ頻繁にこの部屋の主がコーヒーメーカーを酷使しているのだろう。そう言えば、いつもデスクの片隅にマグカップが乗っていたような気がする。
顔を上げると、カップを二つ持ったキラが目の前に立っていた。はい、と言って差し出されたカップを受け取って、手の中で揺れる液体に視線を落とした。
「…どうしたの?」
珍しく自室に引き篭ることなく向いに腰を下ろしたキラは、何気なくそう訪ねて来た。
別に、とぶっきらぼうに返事をすると、キラは少し寂しそうに微笑う。その顔を認めた瞬間、頭の奥でぱちり、と音がしたような気がした。顔を上げて凝視するディアッカに、きょとんとした顔でキラは再びどうしたの、と首を傾げた。
「…今、なんか」
言い掛けて、止めた。それを言葉にしてしまったら、多分彼はまた哀しそうな顔をするのだろうと思った。そうして、そんな顔をさせたくないと思っていた自分に驚いた。
「…なんでも、ない。」
ほんの少し逡巡してから取り消すと、変なの、と言ってキラは苦笑した。
それからは、ただ沈黙とコーヒーの香りだけが空間を支配していた。
半ば呆然と、青年は壇上の男が流浪と語る言葉を聞いていた。
コーディネイターは最早人間と呼ぶものではない。そう、戦争の最中、間近でそれを見た青年に取っては、最初からアレらは人ではなかった。
その、脅威的な力と策略で以っていずれナチュラルを駆逐し、世界を支配するのがヤツラの目的だと、壇上の演説は続ける。そうさせてはならない、と力強く。
虚ろな光を宿した青年は、ただその言葉に呆然と頷く事しか出来ない。まるで強力な催眠術にでも掛けられたかのように、青年も、周りにいる人間も全て、ただ頷く。
そうだ、アレは危険だ。
そうして、彼らの最大の敵である人物の写真を、記憶にしっかりと焼き付けて。
この男を、殺せ。
壇上の男は、眼下にいる人間全てが呆然と頷く様を見て、満足そうに笑った。
そうだ、あいつを滅ぼさなければ。
そうすれば、きっとこの世界は救われる。
空っぽの自分もやがて、満ちたりた世界で幸せに生きて行くのだ。
それが、偽りなのか真実なのか、判断する思考は欠片も残っていなかったけれど。
出掛けて来るね、と言ったら、とても興味のなさそうな顔でふうん、と彼は呟いた。
「…多分、遅くなるから。」
小さなディスクが何枚も入ったケースを抱えて、キラは一応同居人に声を掛けた。自分がいなくても、この部屋は常に監視されている。それぞれに護衛がついていて、そうと知られない程度に張り着いていた。出掛ける時は、大抵送り迎え付きだ。
携帯端末が迎えの到着を知らせたから、一応断って置こうと思って部屋を覗いた。部屋の片隅に置かれたパソコンに向って、何事か調べていたらしいディアッカはとても気のない返事をしてちらりと振り返り、すぐにまた視線をモニタに戻してしまった。キラの方も、見詰められると辛いからそれでいいと納得している。先日のような、真っ直ぐな視線はとても恐い。なにもかも、見透かされているような気がするから。
作品名:Flash Memory ~いつか見た夕暮れ~ 作家名:綾沙かへる