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綾沙かへる
綾沙かへる
novelistID. 27304
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Flash Memory ~いつか見た夕暮れ~

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 ゆるゆると薄暗い部屋の中で唯一光源を持つ水槽で、巨大な魚が漂っている。
 その後ろで一人の青年が食い入るようにモニタを見詰めていた。
「…見付け、た…」
 澱んだ瞳で呟いて、狂気を帯びた唇を笑みの形に歪ませた。
 小さくとも、確かに幸せを築いていた自分から、全てを奪ったもの。
 人の皮を被った、化け物。その、最高と称される生き物を。
 くぐもった笑い声を響かせて、青年はただ、モニタを見詰めていた。


 マンションの周辺をなんとなくぶらついて、それでも頭痛は収まらなくて、得体の知れないもやもやとした気分は一向に晴れる気配すらない。通りがかりの自動販売機で缶コーヒーを買って、部屋に戻る。
 時間が夜にさしかかると、部屋の中は暗い。街の明かりが開け放したカーテンの向こうから入って来るお陰で、全くの闇と言う訳でもない。明かりを点ける気にもならず、ただリビングのソファに座って疑問に答えてくれる人間が戻ってくるのを待った。
 ぼんやりとした時間がどのくらい過ぎたのか、時計を見るのも忘れた頃に小さくドアの向こうで音がした。エレベータの扉が開く音。そうしてほどなく、玄関のドアが開いた。廊下の間接灯が灯ると、それすら闇に慣れた目には眩しいと思ったくらいだ。
 リビングに続く廊下から静かに戻って来たキラが、真っ暗なリビングのソファに座っている自分を見つけて驚いたように立ち止まる。
「…どう、したの?」
 無理に笑みを浮かべるキラに、収まりかけた苛つきが再び顔を出す。なんで、そんな顔で無理して笑うんだよ、と。
「…アンタ、待ってた。聞きたい事があるからな。」
 酷く冷たい答えに、キラは微かに眉を寄せた。それでも、僕に答えられることなら、とキッチンカウンターの上にある照明だけを灯して、ディアッカの正面に腰を降ろす。
「茶パツで、緑色の瞳をした女の子、知ってるか?」
 キラの瞳が揺らいだ。ミリアリア、と呟くのを見逃さない。
「…そう、その子。知ってるんだな。じゃあムウ・ラ・フラガってのは?」
 続けた言葉に、キラは視線を逸らす。答えはないけれど、その表情が全てを肯定していた。
「…思い、出した訳じゃない、みたいだね…」
 何かを堪えるようにキラはそれだけ言った。
 そんなに、簡単だったら世の中に記憶喪失なんてある訳がない。それとも、キラは思い出して欲しくないのだろうか。
 また、酷く頭が痛む。
 微かに顔を顰めたら、キラは異変に気付いたのか腰を浮かせた。
「…なんでも、ねぇよ。」
 差し出された手を払い退けると、しんとした部屋に思いの外大きく響き渡った。あからさまな拒絶にキラは泣き出しそうな表情を一瞬見せる。けれどそれはすぐにいつもの微笑にとって変わり、鎮痛剤で良いよね、と言ってキッチンへと立った。
 その後ろ姿は、とても頼りない。記録の中だけで知ったパイロットと、目の前にいる青年はどうしても結びつきそうになかった。それでも以前、パイロットだったのかと聞いた時、答えては貰えなかった。
「…アンタ、あの艦に乗ってたのか。」
 恐らくそれは間違いない筈。ザフトのデータベースには掠りもしなかった名前。あの白い艦に乗っていなければ、知り合う事すらなかった筈なのだ、自分とキラとは。本人が主張する「ただの知り合い」はどの程度の知り合いなのだろう。
 どうしてそう思うの、とグラスと白い錠剤を手に戻って来たキラは静かにそれだけ呟いた。
「単純な話だろ。あの艦に乗ってなけりゃ、オレとアンタは知り合う事もないだけだ。」
 ことり、とテーブルとグラスが微かな音を立てる。
「…そうだね。」
 キラは頷いた。確かに、あの艦にいたよ、と続けて。
「僕が、パイロットに見える?」
 確かに微笑んでいる癖に、とても冷たい瞳をしてそう言ったキラは、自分以上に何かに苛ついているように見えた。
「…見えねぇな。」
 素直に感想を述べると、キラは小さく笑った。そう、まるで悪巧みが上手くいった子供のように。
 僕の仕事知ってるよね、とキラは言う。
「システムエンジニア。つまり、整備士の端っこにいたくらいで。」
 くすくすと笑いながら続けるから、それが嘘なんだと気付いた。どうしてそこで嘘を吐く必要があるのだろう。
「…へェ?」
 沈んで行きそうな瞳から、視線を逸らす事が出来ない。欠片でしか答えをくれないキラは、一体自分にどうして欲しいのだろう。
 それ飲んで、ゆっくり寝てね、と言って立ち上がるキラの手首を掴んで引き止める。少し驚いたように首を傾げて、どうしたの、と放たれた言葉は、震えている。
 また逃げられる、と思った。
「なんか、隠してるだろ。」
 それだけ、確信があった。けれど、別に、と返事をしたキラはふわりと笑みを浮かべる。
「…隠し事が一つもない人間なんて、いないよ。」
 お休み、と言って絡んだ指を素早く外すと、キラは自室のドアの向こうに消えて行く。それを見送って、どうしようもない苛立ちと共に満たされていた水を飲み干した。
「どうしろッつーんだよ。」
 中途半端に呼び醒まされてはまた沈んで行く記憶は、気持ちが悪い。断片しか浮かばないそれらを掴んで、繋ぎ合わせても、とても大切な何かがいつも欠けているから形にならない。
 酷くなる頭痛と共に、理由の分からない焦燥感だけが募って行く。
 早く。
 それは思いの外難解なパズルだ。最初から、存在している筈なのに足らないピースばかりの、記憶と言う名のパズル。
 小出しにされたピースは、いつでもたった一人の言葉に振りまわされる。
 ぶつけようのない苛立ちは、叩き付けたテーブルの上で割れたグラスが物語っていた。

 緊張しすぎて、眩暈すら覚えた。
 なにも思い出さなければいいのに、と言う感情と、全部思い出して欲しいと言う感情と。本当に望む事はなんだろう。
「…どっちも、ヤダな…」
 溜息混じりに呟くと、ドアの向こうからグラスが割れる音がした。余り時間は残っていないらしい。
 嘘が下手だな、と言って笑ったのはディアッカだ。戦争をしていると言うのに、それはとても幸せな記憶。キラの中だけでひっそりと息づく、とても大切な想いと共に。
 ああ、本当に。
「あなたの事、好きだったんだな、とか。」
 そう、今でも、こんなに。
 なんて自分勝手なんだろう。
 黙って姿を消したのは自分のほうで。今まで探してくれた事が嬉しくて。
 忘れられてしまったことが、こんなにも。
「…ごめん…」
 悔しくて、哀しい。
 力が抜けるようにドアを背に座り込んで、再会してから初めて、静かに涙が溢れた。


 鍵が、来た。
 モニタに表示されたキーワード。
 ああ、今なら自分にも出来るかも知れない。
「鍵が来た。」
 呟く言葉は虚ろで。
 それでも、己の復讐を果たす時は目の前に。


 キラから目を放すなよ、とシャトルの搭乗口で彼女は繰り返した。
「あいつは、私と同じで無茶苦茶だからな。」
 苦笑混じりにそう呟く彼女とキラは、確かに驚く程似ているときがある。血を分けた双子、と言うのが一番の理由なのかもしれないが。
「分かってる。」
 鍵も、キラも。
 ようやく望んだ世界だ。自分達の手で切り開いた未来の、やっとスタートラインに立ったばかり。