Flash Memory ~あの日見た朝焼け~
角を曲がった途端に、頬を銃弾が掠めていく。構えた銃が嫌な音を立てて沈黙した。弾詰まりを起こしたのだと判断するより早く、とっさにそのまま相手に向かって投げつける。意表を突かれたのか、顔面で鉄の塊を受け止めた相手は声も無く倒れ臥す。床を滑ってきた銃を拾い、角の先に繋がる玄関ホールへと動かない身体を叱咤して進んだ先に、その青年はぼんやりと立っていた。数日前に、ベランダの下にいた青年。
「…あなたは…」
一瞬、息を飲む。
焦点の合わなかった瞳がキラを捉えて、にい、と笑った。
「…やっと…やっと救われる…世界、が…」
お前が死ねば、それで終りだ。
その言葉に、引き鉄に掛かった指先が震えた。言い知れぬ感覚は、恐怖。ただ純粋に、向けられた憎悪。
怖い。
目の前で、ゆっくりと青年が銃を構える。構えると言うよりも無造作に片手を上げて、銃口の先にしっかりとキラを捉えて。
扉を背にして立つ青年と、階段の踊り場にいるキラの間には遮る物が何もない。条件として下からの方が狙い難いと言う事以外は、どうすることも出来ない。
言う事を聞かない身体が、恐怖に固まって。同時に、これで終れるかな、と言う奇妙な安堵感が広がる。
「…妻の…娘の、ナチュラルの仇…!」
その言葉は、理由になるかもしれないと思った。力の抜けた手のひらから、銃が滑り落ちる。
「…ごめんなさい…」
どうしてここまで生きようと思ったのか。生きていたいと思ってしまったのか。その理由を自ら捨てて来たのだから、これ以上この世界に自分が存在する理由なんか、ない。
こんなに大きな騒ぎになってしまったのは、キラの我侭が原因。ただ、大切な人を傷付けた、それが許せなかった。だから、この青年の気持ちが痛いほど伝わって来る。
こんな結果を選んだ自分を、許してはくれないだろうなとキラは微かに微笑を浮かべた。気を抜けば崩れ落ちそうな身体を必死で支えて。それでも、感覚のなくなった手足は自分の意思とは無関係に活動を停止していく。
壊れた笑みを浮かべた青年が引き鉄を引く直前、乱入した誰かが先に銃声を響かせる。ずれて重なった銃声と、身体を襲った衝撃。バランスを崩した身体は、糸が切れた様に崩れ落ちる。
ひゅう、と喉の奥が嫌な音を立てた。
霞んで行く視界の中を、誰かが駆け寄ってきて。必死で呼んでいるような気がするけれど、聞こえない。ゆっくりと瞬きをして、ぼんやりした視界に映った人を確認して。
金色の、癖のある髪と、泣きそうに歪んだ菫色の瞳。
初めて会った時の事を、不意に思い出した。もう随分と遠い、昔の話のようだ。
暮れて行く夕日の中で、ぎこちなく言葉を交わしたあの日。その時、この人はとても綺麗に笑ってくれた。それが、とても嬉しくて。
その時の、あの場所に。
無意識に零れた言葉を最後に、記憶が途切れる。
アイボリーの絨毯が敷き詰められた廊下。裏手にあるリノリウムの床とは対象的なそこは、幾つもの足跡と血痕で台無しにされていた。頭に叩き込んだ見取り図を頼りに主の部屋に向い、途中で緑色の制服を着た兵士達がテロリストだかこの邸の人間だか分からないまま端から拘束している現場を摺り抜ける。
最上階の廊下は、余程激しい銃撃戦が展開されたのか、照明は粉々、壁の至る所に銃痕が残り、負傷者の数も格段に多い。一際豪奢な作りの扉が着いた部屋の中で、この邸の主が死亡している、と言う報告を受けた。
「…死んだァ?またやっかいな…っと、他には?」
成り行きで報告を聞き、それをそのまま外にいる連中に伝えてくれ、と言ったところで誰かが廊下の向こうからディアッカを呼んだ。
手招きされるままに駆け寄ると、比較的綺麗なままの廊下の一箇所に、夥しい量の血痕が残っている。
「ここに、だけか?」
その先に、引き摺って移動した痕跡があった。幾つもの階段を擁するこの邸の構造から察するに、ここで怪我を負った誰かはこの先の階段を目指して進んだ事になる。
なんとなく、嫌な予感がした。
間違いなくここにいる筈のキラを見付けた、と言う報告はない。自分が入ってきた邸の裏側は、全くと言って良いほど無傷だった。そこからここに来るまでなんの手がかりもない。
「…追ってみる、か…」
怪我をして何処かに隠れて動かないでいてくれた方が、どれだけマシだろう。キラの性格上、大人しくしている訳ないか、と小さく溜息を吐いて。
その血痕は、外に向かっているようだった。辿る内に、嫌な予感は増していき、途中で遭遇した無傷なテロリストに手加減する事を忘れてしまった。そうして、情けない悲鳴を上げて転がった男が、自分と同じ方向に向っている事に気付く。
怪我に喚く男から半ば強引に問い質すと、確かに彼等はキラを追っていたと言った。同時に、階下から響く銃声。後ろから来た兵士にそれを押し付けて走り出す。
このまま進めば玄関ホールに突き当たる。そう考えて、先周りするルートを選んだ。転がった障害物のような人間に構っている余裕もない。ホールに近付くにつれて、人気がなくなって行くのが不思議だった。
長い廊下を走り抜けて、開けた視界の先に飛び込んで来たのは、銃を掲げた青年。その銃口が向けられた先。
「…キラ…ッ」
走り込んだ勢いのまま、トリガーを引く。乾いた銃声が重なって、目の前の青年が腕を抑えて蹲る。取り落とした銃が握れるほど軽い怪我ではない。それを確信して上げた視線の先で、キラはゆっくりと膝を突いた。そのまま崩れるように倒れる。
階段を駆け上がり、踊り場に横たわる姿に自分でも何を言ったのか分からない。
ただ、その細い血まみれの身体を抱き起こして、名前を呼んで。それが届いていないのか、キラは焦点の合わない瞳でゆっくりと瞬きを一つする。
「…っかりしろよ、キラ…ッ」
漸くディアッカを認めたのか、ふわりとキラは微笑んだ。薄く開いた唇が震えて、風を切るような呼吸を繰り返す。握り締めた指先が、冷たい。
消えていく、と思った。
零れていく命。二度と、離さないと誓って、離したくないと願った筈の。
ぽつり、とキラの頬に落ちたもの。それが自分の涙だと気付くには、少し時間が掛かる。
微かにキラの唇が動いて、紡がれた言葉。その、微かな言葉だけが。
「…海が…見たい、な…」
それを、最後に。
波の音がする。目の前に広がる、白い砂浜と南国らしい緑の木々。潮騒ばかりが響く空間は、木目がそのまま活かされた部屋。小さなバルコニーに繋がる硝子のドアは開け放たれ、湿気を含んだ潮風が通り抜けていく。
こつり、と自分が立てる足音すら大きく聞こえるほど、静かな場所。
楽園と言うものが存在するのなら、こんな風景なんだろうか、と思った。
「…らしく、ねぇなあ…」
苦笑混じりに小さく呟いて、日の当たるバルコニーから手を伸ばして摘んだ大きな紅い花を水を張ったグラスに無造作に差した。
季節は、多分冬の終り。赤道が近いこの国の冬は、穏やかで暖かい。ここに来たのがまだ陽射しの強い季節だったから、時間が流れるのは早いものだ、とディアッカは溜息を吐いた。
作品名:Flash Memory ~あの日見た朝焼け~ 作家名:綾沙かへる